文化 まるごと博物館 234

■山野城(やまんじょう)城主 朽網氏に仕えていた家来一族のその後
久住町大字仏原の標高780~800メートルの所に、12世紀末から13世紀初めに築かれていた市指定文化財の史跡「山野城跡」がある。また、大字有氏(岳麓寺)にも史跡朽網宗暦(くたみそうれき)の墓がある。
当時、この地域を治めていた朽網氏は、天正14(1586)年島津軍の侵攻により城を一時あけ渡し、それが大友氏の怒りにふれ、城主 朽網鎮則(しげのり)は乙津川の渡場で自刃し朽網氏は滅亡した。朽網氏一族に関するその後の記録は途絶えているが、一方、大友氏に追われ城主を亡くして牢人となった家来たちはどうなったのか…。
大分市の小中島地区が編集した「小中島小史」に次のように書かれていた。
『我が郷土小中島は直入郡山野城主に仕えた二十余人が当地に住居することにより始まる…』
『一時小中島にひそんでいて周囲が落ち着き、又生活の見透しがたち、或いは大友家が国除となり追手の心配もなくなったため家族を呼んで居住するようになった…』
大分市「鶴崎町史」にも朽網氏に関して書かれており、小中島の共同墓地内の碑文にもこれらの地区の起源に関する記録が残されている。
また、平成2(1990)年には、小中島地区の方々が山野城を訪れ、このことを後世に引き継ぐために、城跡にも「先人の碑」を建立した。
山野城を出て400年以上経った今なお、遠く離れた大分市において小中島の子孫が、天神講と称し天満神社及び先祖の祭り事を継承していることを知り、感慨深いものを感じる。
(本郷 純司)