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かつては大きな池だった? 巨椋池(おぐらいけ)から干拓田へ

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京都府久御山町

■70th ANNIVERSARY 久御山町は今年の10月で70周年 これまでの歴史を振り返る

現在、久御山ジャンクションとその周辺には干拓田として美しい風景が見られますが、かつては巨椋池という京都府下最大の淡水湖が広がっていました。
京都盆地の中で一番低く、宇治川・木津川・桂川が合流する山崎の天王山と石清水八幡宮のある男山の間は、狭くて水の流れが悪いこともあり、水がたまった状態で残ったのが、巨椋池であると考えられています。

▽甲子園球場約21個分の大きさ
巨椋池は、宇治川・木津川・桂川の3川が合流する一大遊水池としてその雄姿を誇っていました。
平均水深は約90センチメートル、周囲約16キロメートル、水域面積約794ヘクタールの淡水湖で、水域は現在の久御山町、宇治市、京都市伏見区にまたがっていました。
その大きさは甲子園球場約21個分にもなります。

▽多種多様な生物が生息
巨椋池は、琵琶湖・淀川水系に属し、宇治川と流通していたことから、極めて魚類の豊富な池で、コイやフナ、タビラ、モロコなど、45種に及ぶ魚類が生息していました。
水生植物も多く、国産水生植物の85パーセントが生息し、その他、エビ類や貝類、食用のスッポンなども生息していました。
広大な水面を有した巨椋池は、古くから鳥の大集合地で、63種以上の鳥類を見ることができました。マガモやアジガモなどのカモ類が群れをなして飛来し、狩猟家にとって格好の猟場でもありました。

▽蓮見舟
巨椋池といえば「蓮」といわれるほど、蓮の名所としてその名が知られていました。水深が浅く、停水した巨椋池は、蓮にとって理想的な環境であったと考えられます。池には初夏になると水面に蓮の花が咲き乱れ、蓮見舟が出るなど文人墨客の往来がたえませんでした。
1889年発行の中等教育作文教科書附録に「大阪から汽車で京都に来て巨椋池で蓮見舟にのり、蓮の花を見ながら酒を飲んで楽しくすごした」と一文が掲載されており、明治初期から人気を集めていました。

▽周辺住民の願いからの干拓運動
巨椋池は明治39年の宇治川の付け替え工事により、池と河川が完全に分離されました。河川氾濫の直接的影響は受けなくなりましたが、水位が著しく低下し、水の循環を失った巨椋池は池周辺から流れ込む生活排水によって水質が悪化。漁獲量は年々減少するとともに、マラリアの発生は途絶えず、それに加え水害に悩まされていました。
そこで、沿岸の水害を根絶させ、干拓により田を造成し、漁業から農業への転換を図りながら、農業による生活向上を願う周辺住民の熱心な干拓運動が起こりました。

▽前川堤の桜並木
東一口の排水幹線を前川といい、両岸を前川堤といいます。昭和43年ごろ巨椋池土地改良区が、この堤に地域の環境改善のため、300本あまりのソメイヨシノを植えました。
今では、京都の自然200選に選ばれている桜の名所となっています。

▽634ヘクタールを造成
巨椋池の干拓は、周辺農地の灌漑用水の確保も考え、埋立は行わず、主として機械排水で滞水を調節して新たに634ヘクタールの耕地が造成されました。
昭和8年に着工され、昭和16年に完成しました。干拓事業により、用排水施設が整備され、既耕地は良田となり、さらに新田造成によって干拓田の生産米は2万石、周辺既耕地の増収約1万石という実績を上げ、戦時・戦後の食糧難に大きく寄与しました。

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