◆羽柴秀勝による亀山城整備
山崎の戦いに勝って、有名な清須(きよす)会議が行われたのち、羽柴秀吉が亀山城を押さえました。秀吉が、宿敵明智光秀の築いた城を壊さずに残したのは、亀山が京都に近く、山陰道や保津川を押さえる要地であることを秀吉も認識していたからと思われます。
事実、秀吉が亀山城主に任命したのは、自らの一族や重臣たちでした。秀吉が押さえた後、最初に城主に任命されたのが羽柴御次秀勝(おつぎひでかつ)です。
御次秀勝は、次の城主である小吉秀勝の実名が同じで混同されてきたことや、そもそも残された史料が少ないことから、亀山城主時代の実態がよくわかっていません。その中でも、吉田神社の神主であった吉田兼見が記した日記『兼見卿記』には興味深いことが書かれています。
天正十二(一五八四)九月九日条の記事に「御次秀勝様から、南方に御殿を建てるので祈祷(きとう)をしてほしいと頼まれた」とあり、御次秀勝が亀山城に新たに御館を建てたことがわかります。
御館の内部についても、翌年正月の記事で「御台所より入り、奥の座敷で対面した」などと書かれており、この頃までに御台所や奥の座敷を備えた立派な御館が亀山城の敷地に整備されたことがわかります。
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