■Interview ドナー経験者の声
人の命に関わる尊い経験でした
市内在住 石田拓郎(いしだたくろう)さん(42)
(32歳のときに骨髄を提供)
○なぜ骨髄提供を決めましたか
私自身、子育てをする中で社会的なサポートに助けられた経験があったので、社会や困った人に恩返ししたいと、ずっと考えていました。ドナーに選ばれたときは、やっと誰かの役に立てると思いました。
○入院について教えてください
京都市内の病院に3泊4日入院しました。仕事が気がかりでしたが、上司や同僚の理解とサポートのおかげで、無事、骨髄提供できました。
○術後の身体の痛みはありましたか
術後1週間ぐらい、腰に少し痛みや張りがありました。個人差はあると思いますが、想像していたよりもダメージは軽かったです。日常生活に支障はありませんでした。
○骨髄提供後の感想を教えてください
術後、お相手からいただいた手紙に「人生に続きができました。ありがとうございました」と綴られており、命に関わる尊い経験をした実感がわきました。提供してよかったと感じました。
■病気治療のカギはあなたの骨髄かも!?
◆白血病などの治療には造血幹細胞移植が不可欠
血液の病気になると正しい血液が造れなくなります。
化学療法だけで完治できる患者さんは限られており、正しい血液を造る細胞「造血幹細胞」を移植することで血を作る機能を回復させる治療法「造血幹細胞移植」が必要なケースが多くあります。
○正常な状態
造血幹細胞は、赤血球など、それぞれ違う形態に成熟する
○白血病
造血幹細胞に何らかの変異がおき、異常な細胞が無限に増殖する。一旦増殖を始めた細胞は、何らかの治療をしなければ増殖をやめない
◆標準的な白血病の治療
診断→化学療法→ドナーから造血幹細胞を移植
◆ドナーがたくさんいれば、命を救える確率が上がる
ドナーから細胞を移植する場合、白血球の型(HLA型)が適合しなければなりません。
HLA型は約1万6千種あるといわれています。
HLA型が血縁者以外と適合する確率…
1/数百人~数万人
今、日本でドナーを探している人…1694人(令和6年7月末現在)
1694人の中に、あなたの骨髄を待っている人がいるかもしれません
◆今のドナー登録者のうち約60%が15年以内に卒業
骨髄バンクはドナー登録者を募り、造血幹細胞移植が必要な患者と、細胞を提供するドナーをつなぐ機関です。
骨髄バンクへの登録には年齢制限があり、満55歳の誕生日で登録取り消しになってしまいます。登録者の大半が卒業のタイミングを迎えた今、命を救うために皆さんの協力が必要です。
各データ出展:日本骨髄バンクデータ集
平成元年、藤岡八重子(ふじおかやえこ)さんの娘の貴子(たかこ)さん(享年・13歳)が白血病で亡くなられました。
当時、貴子さんを救おうとした藤岡さんをはじめ市民の皆さんの取り組みは国を動かし、日本骨髄バンクの設立へとつながりました。現在は地元福知山を拠点とするNPO法人で、献血と骨髄バンクへの理解と協力を求める活動をしています。
NPO法人献血と骨髄バンクの和を広げる会 理事長
藤岡八重子(ふじおかやえこ)さん
■骨髄が必要な全ての人に 移植の機会がありますように
○ドナーを必死に探す
骨髄バンクがない時代だった
昭和61年、当時10歳だった藤岡貴子さんは、3歳のときに罹った白血病を再発しました。母の八重子さんは当時をこう振り返ります。
「どうにか貴子に生きてほしい思いでした。新聞の小さな記事で骨髄移植を知りました。当時、骨髄バンクはなかったので、兵庫県の医科大学でドナー適合検査をしましたが、家族は全員、不適合でした」
八重子さんはドナーを見つけるために奔走します。
「30~50人のHLAデータを東海大学が保管しているということを知り、関東まで行きました。しかし、ドナー適合する人はいませんでした」
昭和62年、貴子さんは名古屋の病院に転院することになりました。
○骨髄バンクは私たちが作るしかない
八重子さんは骨髄移植がたくさんの人にできるよう、既に海外で取り組まれている骨髄バンクの設立を主治医に提案しました。
「私は社会の関心を高めるためにマスコミへ、夫はライオンズクラブへ呼びかけを始めました。厚生省(現在の厚生労働省)にも骨髄バンク設立を求める手紙を送りました」
予想に反して、当初、社会の反応は薄かったといいます。「全身麻酔で、太い針を刺すリスクがあるからでしょう。厚生省からは、『ドナーのリスクが大きいので、骨髄バンクは作れません』と返信がありました」
八重子さんは、ほかの患者の家族や医療従事者、ライオンズクラブ、ボランティアとともに、骨髄バンクの設立に向けて動き出しました。
「骨髄バンクは、私たちが作るしかない」と決意を固めました。
○日本骨髄バンクの設立へ
昭和63年、八重子さんたちの活動が実を結び、「名古屋骨髄・献血希望者を募る会(東海骨髄バンク)」が発足。日本初の骨髄ドナーの募集が始まりました。八重子さんは、新聞やテレビ、ラジオに取材依頼をもちかけ骨髄ドナー登録への協力を呼びかけました。
「福知山の人も率先して、名古屋までドナー登録に行ってくれました。結果、全国からドナーが1200名も集まり、55例もの移植実績ができたんです」
同年、55例の移植実績と、100万人分の骨髄バンク設立を求める署名を厚生省へ提出し、平成3年、ついに日本骨髄バンクが設立されました。
○貴子さんの思いを胸に活動を続ける
娘の貴子さんは、平成元年、厚生省から骨髄バンク設立決定の手紙が届く前日に、13歳という若さで亡くなりました。
「貴子のため、たくさんの人があらゆる方法を模索してくれました。貴子の『自分以外の人も助けてほしい』という言葉は、今でも胸に残っています」
八重子さんは病気で苦しんでいる人を一人でも多く救いたいと願い、今も「NPO法人献血と骨髄バンクの和を広げる会」の理事長として活動を続けています。
「毎年2人に1人は骨髄移植を受けられていますが、必要としている人全員に移植の機会があることが大切です。そのためには人種を超えて広く、多くの人に骨髄バンクへ協力してもらえたらと思います」
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