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とす新風土記〜「鳥栖市誌」を読む〜第111回

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佐賀県鳥栖市

「勝尾城(かつのおじょう)を知る」第7話―城のもう一つの役割―

『城』というと、大阪城や姫路城、熊本城などの天守を持ち、瓦葺(かわらぶき)で白壁造りの建物に高石垣、水堀をイメージすることが多いと思います。これらの城は、平城や平山城と区分され、その多くは近世(江戸時代)に築城されました。
鳥栖に残っている『城』は、中世(鎌倉〜安土桃山時代)に築城され、その特徴は、山の地形を利用して築かれた山城で、市内では現在14城を確認しています。
その中で代表的な山城が、戦国時代終わり頃に筑紫(ちくし)氏が本拠とした勝尾城(牛原町)です。本城の勝尾城(標高約500m)を防備するために支城の葛籠城(つづらじょう)、鬼ケ城、高取城、鏡城、若山砦、東出城の山城群と南麓に城主の居館、谷筋に家臣の屋敷、寺社、町屋を含めて勝尾城筑紫氏遺跡(国史跡)と総称しています。
また、その他の山城としては、朝日山城(村田町)、所隈(ところぐま)山城(西新町)、山浦城(山浦町)、雲上(くものうえ)城(山浦町)、柚比城塞(ゆびじょうさい)群(柚比町)、中原城城塞(河内町)、神辺城塞(神辺町)が確認されています。
ところで『城』の主な役割は、敵の侵攻を防ぐ軍事的防御施設ですが、一方で領民の避難所的な機能も果たしていたと考えられています。城主は領内の民衆を保護する責務があり、民衆は領主に対して年貢や労役の提供を行うギブアンドテイクで成り立っていたようです。
天正14年(1586年)に勝尾城は、薩摩の島津氏の侵攻によって落城します。島津氏の重臣である上井覚兼(うわいかくけん)の『上井覚兼日記』では「里村悉(ことごと)く繰上、居城へ閉籠候(へいろうそうろう)間、…」とあり、領民の多くが勝尾城に立て籠ったことが記されています。
当時は乱世の世。戦いで負ければ生命や財産を失う過酷な時代の中で、自らの命や家族を守るために、勝尾城の石垣や空堀などを領民が一丸となってつくったことが想像されます。(鳥栖市誌第3巻第5章第1節より)

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