■八鹿という地名
八鹿の地名の始まりについて、昭和35年10月発行の『八鹿広報』の中に『八鹿町勢要覧』を引用した解説があります。「天熊人命(あまのくまひとのみこと)は夜夫(やぶ)の谿間に桑を植え、蚕を屋岡に養うたので屋岡原というようになった。但馬の国号は谿間から来ているし、八鹿(屋岡)は、八桑枝(ヤクワエ、桑の枝がよくのびているさま)からかわったものである。」
これは『但馬故事記』をもとに、「八桑枝」が「屋岡」に変化して「八鹿」になったという解説です。魅力的な説明ですが、桑の木を植える養蚕と生糸の国産化は、江戸時代中期に始まります。言葉に無理が多いことから、江戸時代に生まれた伝説と考えられます。
歴史的史料では、永正13年(1516)「ヤウカ」、弘治3年(1557)「屋うか」の地名が最初です(『兵庫県の地名I』日本歴史地名体系29巻I、平凡社)。「八鹿村」の漢字は、豊臣秀吉の太閤検地で定まり、現代まで続いているようです。
「屋岡」の漢字は、明治時代初期に集中しています。明治6年、八鹿村に屋岡小学校が設立され、八幡宮は屋岡神社に改称し、明治12年に新設の橋は、屋岡橋と命名されました。
昭和30年頃の平仮名表記では「ようか」の他に、「よおか」「やをか」「やうか」も確認できます。八鹿はなぜ八鹿なのか、なぞは続いています。
(教育委員会歴史文化財課)
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