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北原雅長の「歌碑」と「直筆掛軸」に子孫が対面

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北海道せたな町

明治29年福島県会津若松の経済人高瀬喜左衛門ら八名が組織した殖民組合によって拓かれた若松地区に、当時の縁を偲ぶ二首が刻まれた歌碑があります。
歌碑は樹齢600年を超える雌雄のイチイ祖の松と新函館農協若松支店事務所横に、若松開拓35周年記念事業で建立したことが「わかまつ百年記念誌」に記されています。若松地区の開拓事情に詳しい板垣好英さんは「碑は語る」の中で、和歌の作者北原雅長の来村について「郷土史研究No.38(佐藤信人著)」で、『明治39(1906)年9月に初めて北海道に渡り、穴澤祐造(若松農場組合主任)とともに若松開拓地を訪れた』との記述を紹介しています。
せたな町には近年、会津高白虎隊剣舞会、会津民族研究会、会津会、若松農場殖民組合創設者子孫など会津関係者の訪問が続いています。昨年10月には北原雅長と系譜を同じくする北原秀光氏(宮城県仙台市在住)が来町され、二基の歌碑と穴澤家子孫の達也氏が後に若松山法覚寺へ寄贈した三幅対の直筆掛軸に、北原家一族として初の対面を果たされ、先人に想いを馳せていました。
秀光氏は現在、北原家15代目として会津藩士子孫会の会長を務めており、明治3(1870)年から翌4年にかけて、青森県斗南から移住した13戸のうちの旧会津藩士篠塚哲右衛門の子孫・篠塚三喜郎さんの案内で旧会津町など瀬棚区内を巡り、旧藩士子孫同士の交流を深めていました。

■若松の歌を詠んだ北原雅長とは
北原雅長は天保14(1844)年会津藩家老神保内蔵助の次男として生まれ、母方の実家北原家の養子となる。京都守護職となった藩主松平容保とともに京に上り禁門の変に参加。後に籠城戦を指揮し敗戦。明治6年赦免され工部省に入省、明治22年初代長崎市長などを務めた。引退後は静岡県浜松で会津藩の幕末最後の7年間の激動の歴史をまとめた「七年史(上下巻)」を明治37年に出版。余生を歌人として送り、この間の明治39年9月に開拓10年を迎える若松農場に来村している。大正2年71才で病没。

■北原雅長・若松訪問の経緯
明治39年初秋に小樽に在住した曾祖父光近(11代目)の婚儀が行われ、北原家一族として北原雅長が出席していること、会津経済人穴澤祐造の歌の師を通じて懇意の関係にあったことから、来道の機会に穴澤祐造の奨めで同年9月、若松に来村した北原雅長は、祖の松で二首、遊楽部園(法覚寺境内)で一首を詠んでいる。
なお、北原家六代光裕(家老職)と丹羽家七代能教(後に家老職)は、文化5(1808)年正月に樺太北方警備の陣将、軍事奉行として出兵し命運をともにするなど、両家は、保科・西郷家の係累として関係が深く、北原雅長が若松に来村の際に丹羽五郎を訪ねた可能性は高い。(北原家15代秀光氏後日談)

※令和5年11月号5ページで板垣洋子さんを笹原倉次郎氏の孫とご紹介しましたが曾孫の誤りでした。お詫びして訂正いたします。

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