■利尻アイヌ史(3) 石焼鯨(いしやきくじら)
今から300年以上前の1696(元禄9)年、朝鮮半島の釜山を出発して漂流し利尻島に漂着した事件がありました。その乗組員8名のうちのひとり李志恒(イ・チハン)は、利尻島漂着から礼文島、宗谷、羽幌、松前へ移送される間、見聞したことを「漂舟録(ひょうしゅうろく)」という日記にまとめています。
漂舟録には、利尻島に住んでいたアイヌについて、的確に描写しています。一行は、倭語(日本語)が通じず黄色い衣(アツシのこと:ニレ科のオヒョウの樹皮で編んだ黄色い服)を着て、黒い髪に長いひげ、顔も黒っぽい風貌で、そのうち年を取った何人かは黒い毛皮をまとった人たち、またクマやキツネ、テンの皮服を着て、耳には銀環(イヤリング)をつけ、裸足であった人たち、に出会いました。彼らの道具は、小さな刀(マキリ)のほか、鎌や斧、木弓、鹿角製の鏃をつけた木の矢などでした。一行が供された食事は魚の汁と鯨の干肉だけで、米飯はなく、そのほか干魚や漬けて発酵させた河豚(ふぐ)だったとあります。
さらに、彼らの住居には「鯨脯山積=鯨の干肉が山のように積まれて」いました。ここでいう鯨の干肉とは、蝦夷地(北海道の旧称)の産物であった石焼鯨を指します。石焼鯨とは、「鯨の肉を焼いた石の上にのせて油をとり、後干したもの」であることから、ジャーキーのような保存食であり、交易品としても利用されました。また、採り出した油(鯨油)も交易品の1つとして、灯火用の燃料のほか本州では水田の虫除けなどに利用され、生活のなかでの重要な産物として位置づけられていました。
では、当時の鯨の入手方法は、どうだったのでしょうか。主な方法は「寄り鯨」で、今年利尻島の沿岸に漂着した個体がいましたが、過去にも多くの漂着例が知られています。もう1つは、「捕鯨」によるもので、アイヌはキテという離頭銛(りとうもり)を使った捕獲技術を持ちあわせていました。また、鯨を表わすアイヌ語「フンペ」について、利尻島では「ポロフンベ」、礼文島では「奮部」という地名に名残があり、両者の間の海を鯨が頻繁に回遊していたことを示しています。
ちなみに、少し時代は下るものの、1848(嘉永元)年に日本への入国を試みるため、野塚海岸に上陸したラナルド・マクドナルドは、アメリカの捕鯨船に乗って日本近海までやってきています。当時は、今と違って鯨油目的の欧米諸国による捕鯨が盛んに行われていました。これは、日本近海が国際的にも鯨が豊富に獲れる海域として知られていたことを物語っています。
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