■建有川寨門
郷土資料館に『為取替(とりかわし)申(もうす)境一札之事(さかいいっさつのこと)』という書簡が展示されています。
江戸時代の知内と木古内の町境は、建有川の川筋だったようです。そうすると問題になるのが、大雨が降って川の流れが変わってしまう事です。現在のように護岸がしっかりしていないため、川の流れが変わることがあります。そうなると「前はそこはうちの土地だったのに!」と争いのタネにもなります。
そこで安政3年(1856)正月にお互いに取り交わした約定がこの書簡です。内容としては、「たとえ降雨で川の流れが変わってもお互いに文句を言わない」というもので、木古内から来た原本と、木古内に渡したものの控えの2通あります。控えからは名主豊吉、年寄八右衛門、百姓代吉兵衛、梅吉という人がいたことがわかります。
なお、前年の安政2年、幕府はロシアの進出に備えて蝦夷地を幕府直轄地とし、知内から乙部までを松前領として残しました。つまりここはただの村境ではなく、国境のような意味がありました。木古内側には箱館奉行所の番所、知内側には松前藩の番所があって通行人の手形、荷物の検査をしたということです。
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