■太子講中 吉田を歩く
新年を迎え市内の集落ごとで行われる「伝統行事」もコロナ禍や参加者の高齢化などで存続が危ぶまれるものもあることでしょう。
今回紹介する吉田地区の「太子講(たいしこう)」もその一つで、江戸時代から続いた講は現在、講員4人となり、コロナ禍で中断しているそうです。
聖徳太子を信仰する大工、畳屋、建具屋、左官屋など職人が「聖徳太子」と書かれた掛け軸や「孝養像(こうようぞう)」と呼ばれる太子の肖像画を飾って飲食をしたり、賃金を決めたりする職人仲間にとって大切な集まりが「太子講」です。
吉田地区の太子講には講員名を書いた「太子講中連名帳」が伝わり、うち十数点が江戸時代に書かれ、最も古いのは1815(文化12)年のものです。当時の太子講は毎年正月5日と7月17日に行われていました。記載された十数人のほとんどが吉田村の職人ですが、中村、水戸村(ともに現在の多古町)など近隣の講員名も見られます。
吉田小学校校門そばに1788(天明8)年9月「吉田村 太子講中」が建てた石塔があり、250年近く続く講中であることが知られます。市内の「聖徳太子供養塔」は金原地区(1825・文政8年12月建立)にもあって飯高、大堀、安久山村など10カ村、21人の職人名が刻まれています。
文書の中には、物の値段が上がったため職人の手間も上げたこと、不参加者で会費を納めない者は講中から除くなど興味ある内容が書かれています。
文書や掛け軸などを守り続けてきた「太子講中」の職人らの誇りのようなものが感じられます。
(市文化財審議会委員・依知川雅一)
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