■浅間山古墳と岩屋古墳(八)
浅間山古墳や岩屋古墳の調査から、被葬者が非常に高い身分としての待遇を受けていた可能性について述べてきました。本連載を締めくくるにあたり、浅間山古墳と岩屋古墳の被葬者像に迫ります。
4月号で触れたとおり、印波は下総国の領域の中央にあり、印波国造が治めた地域でした。
古墳時代の国造(くにのみやつこ)というのは、大和王権から地方官として与えられた身分のことで、房総半島には10の国造が割拠していました。他地域と比べて、国造の数が多いことから、ひとつにまとまらない地域という見方もできますが、非常に力のある複数の豪族が支配できるような豊かな土地であったともみなせるでしょう。鬼怒川と小貝川の下流域は洪水などの影響により、開発するのが難しい地域であったのですが、この治水を制したのが印波国造で、その本拠地は印旛浦の東岸でした。
それから約80年後(730年代)、この地域は埴生郡(はにゅうぐん)という行政区となっているのですが、この時期に使用された大量の木簡(もっかん)が、奈良の都・平城京の跡地から出土しました。木簡とは、紙が普及する以前に、文書などを書いた木の薄板で、荷札にも用いられました。その中に、当地域を語る木簡が含まれていたのです。
「左兵衛下総国埴生郡大生直野上養布十段」ここには、都の左兵衛で出仕する大生部直野上という人物に充てて、生活費に換える布を十反分送るという内容が記されています。
ここで注目されるのは、大生部(おおみぶべ)という氏名(うじな)と、直(あたい)という姓(かばね)が記されていることです。大生部は、畿内を本拠とする壬生氏という大豪族につながる氏族です。壬生氏は、七世紀において上宮王家という聖徳太子一族の養育係であり、聖徳太子が摂政として活躍していく中で成長し、東国経営にも参加していました。そして、「直」は、国造の大半が授けられていた姓でした。
この史料から、龍角寺古墳群を造営した氏族が大生部氏であり、7世紀に至って、上宮王家と密接なつながりのある中央の大豪族と結びつき、印波国造の地位に就いたことが推定されたのです。(川尻秋生「大生部直と印波国造―古代東国史研究の一試論―」『千葉県立中央博物館研究報告人文科学』2001年)
冠位十二階の最上位にあたる金銅製冠飾や、漆塗りの棺を与えられ、のちに最大規模の方墳を築くことさえ許された理由の一端がここに示されていると言えるでしょう。
七世紀を中心に、中央の政権から当地域の豪族が非常に力のある者と認められた記念碑が、浅間山古墳と岩屋古墳として今に残されています。
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