■浅間山古墳と岩屋古墳(六)
浅間山古墳に続いて築造された岩屋古墳は、方墳として国内随一の規模を誇ります。墳丘の規模は、東西78m、南北約76m、高さが13.2mであり、どの数値をとってみても、時期的に近い時代に築造された推古天皇陵(61m×55m、高さ12m)よりも、その兄の用明天皇陵(65m×60m、高さ10m)よりも大きいのです。また、大型古墳(一辺の古墳が多く築造された上毛野では、7世紀に、愛宕山56m、高さ8.5m)と、宝塔山古墳(一辺60m、高さ12m)が築造されましたが、やはり岩屋古墳の方が一回り大きいのです。
ただ、最近新たな発見がありました。奈良県明日香村で、小山田古墳の調査を2014年から5年間行ったところ、石敷きの溝が見つかりました。一部しか調査されていないものの、南側の東西辺が80mを超える可能性があるようです。したがって、大和王権の中心部で発見された大方墳ということになります。想定される被葬者が、また大変重要な人物で、舒明天皇と蘇我蝦夷が候補に挙っています。舒明天皇は、推古天皇の次に即位した天皇であり、蘇我蝦夷は大臣として、子の入鹿と共に権勢を誇った人物です。いずれも、当代随一の権力者ですから、被葬者としてはこの上ない人物と言えます。
つまり、岩屋古墳の規模を上回る方墳に、大和王権最上位の人物が葬られていた可能性があるということです。
とは言え、小山田古墳には、墳丘や石室が残っていないことから、良好な状態で残されてきた岩屋古墳の存在感は、揺るがないと言えるでしょう。
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