■長南開拓記(58)~消えゆく前方後円墳~
六世紀前半の継体天皇の時代、また、継体天皇の子息である安閑~宣化~欽明の各天皇の時代は、ヤマト王権内部が不安定な状況であったと考えられています。ただ、欽明天皇の在位は五三九年~五七一年と長く、王権を徐々に安定させていったと考えられます。その中で頭角を現したのが蘇我稲目であり、以降、蘇我氏はその権勢を強めてゆきます。また、この時代は仏教公伝があった時代ですが、当初は王権周辺に留まっていた仏教が、やがて日本の政治や文化に深く浸透してゆくことは周知のとおりです。
六世紀は古墳時代後期にあたり、これまで権威の象徴であった大型前方後円墳が、畿内を除いて、規模を縮小する傾向が見られるようになります。関東地方はこうした動きとは少し異なった様相が見られ、六世紀にも大型前方後円墳の築造が継続します。ただし、正確には関東全体ではなくて、群馬県~埼玉県北部・栃木県・茨城県・千葉県に多く、埼玉県南部~東京都~神奈川県は空白域に近い状況であるなど、かなり特異な様相が見られます。もっとも千葉県の場合は、六世紀前半に大型前方後円墳の規模に縮小傾向が見られ、畿内の混迷との関連性を指摘する意見もあります。六世紀後半になると、再び一〇〇メートル前後の大型前方後円墳が築造されるようになり、特に富津市の海岸平野(内裏塚古墳群/須恵国造)、木更津市の海岸平野(祇園・長須賀古墳群/馬来田国造)、山武市~横芝光町の台地上(武社国造)に集中しています。しかし、全国的には前方後円墳の時代は終息に向かっており、六世紀末には、この時代を代表する墳形だった前方後円墳が、ついに終焉を迎えます。千葉県でも基本的にこの流れは同じで、六世紀末~七世紀初頭には前方後円墳の築造は終了します。ところが、これまで大型前方後円墳が築造されなかった印波国造支配域に、なぜかこの時期、墳長七八メートルの前方後円墳・浅間山古墳が築造されるのです。しかも、築造時期については七世紀第2四半期とする説も出されており、その墳形の選択に不可解さが残ります。
◇”最後の前方後円墳”とも呼ばれる浅間山古墳(栄町)。
房総の大型前方後円墳としては早い時期に築造された能満寺古墳から、すでに3世紀という長い時間が経過していた。
※写真は本紙をご覧ください
(町資料館 風間俊人)
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