■長南開拓記(69)~房総の寺院第一号~
以前取り上げた「長生型横穴墓」のように、七世紀の長生地方は、横穴墓が独特に発達した地域であったと言えるでしょう。その要因の一つに、やはり、この地域の造墓に、技術に優れた工人集団が関わっていたことが考えられます。以前に話しましたが、この地域は伊甚屯倉比定地の可能性があり、そうであれば、ヤマト王権の直轄地として、優れた工人集団が造墓に関わった可能性も高いと考えられます。また、長生型横穴墓は長生北部の丘陵に多く見られ、本町でも横穴墓が多い米満・又富・棚毛もここに含まれます。この地域は笠森層の分布域と重なっていることから、地質との相性が"凝った"造墓を可能にしたという面もあるかもしれません。ただ、七世紀は古墳時代が終焉に向かう時期です。前方後円墳の築造が停止された後、房総の首長層は岩屋古墳など、大型方墳を築造しましたが、それも七世紀中頃には途絶えてしまいます。横穴墓の築造はまだ続きますが、それでも七世紀末ごろには新規築造は停止したとみられます。ただし、すでにある横穴墓への追葬は引き続き行われ、平安時代ごろまで続く事例もあります。
さて、大型古墳の築造が停止した七世紀後半には、ついに房総に仏教寺院が建立されます。その中でも最も古いと考えられているのが、上総大寺廃寺(木更津市)です。廃寺の名のとおり、現在は小規模な神社の境内となっており、古代寺院の面影はありません。ただ、境内の一角に中央に穴が開いた一辺百三十五センチの石盤が置かれています。この石盤は元禄年間に現在墓地となっている「塔の腰」から出土したと伝えられています。その正体は塔の最上層の相輪の最下部の部材であり、まさにこの地に層塔があったことを示す遺物だったのです。また、瓦も出土していますが、軒丸瓦の文様から、天智天皇が創建に関わったとされる飛鳥の川原寺の瓦と同型式のものであることがわかっています。上総大寺廃寺の建立者については、木更津一帯を支配し、ヤマト王権の中枢部とも太いパイプを持っていたとみられる馬来田国造の系譜の人物と考えられます。
上総大寺廃寺の石造露盤。五重塔などの層塔の屋根から突き出た棒状の部分を相輪という。相輪は7つの部材で構成され、最下部の部材を露盤という。
※写真は本紙をご覧ください
(町資料館 風間俊人)
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