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ちょうなん歴史夜話

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千葉県長南町

■長南開拓記(66)~憧れの“佐波理”~
六世紀後半から七世紀前半にかけて、ヤマト王権の中で、中央豪族の中心にいたのは蘇我氏です。特に欽明天皇を支持して台頭した蘇我稲目、対抗勢力の筆頭にいた物部守屋を倒した蘇我馬子は、王権内に不動の地位を築き上げたと言えます。その蘇我氏が深く関わっているのが、百済から公伝した仏教の受容です。これには王権内の権力抗争が複雑に絡み、蘇我と物部の武力衝突も起きていますが、結局、仏教は国家祭祀として受容されていきます。それでも、王権内では伝統的な神事や信仰が継承されていきますが、それまでの価値観が大きく変わったことは確かでした。六世紀末の前方後円墳の築造停止も、そうした影響を受けてのことと考えられますし、それと前後するように、蘇我氏は飛鳥寺、推古天皇の摂政として政治的手腕を発揮した聖徳太子は、四天王寺や斑鳩寺(法隆寺)など、畿内では相次いで仏教寺院が建立されていきます。関東の地に仏教寺院が建立されるのは、それから数十年先のことになりますが、地方にも新しい価値観が広がり、長かった古墳時代も終焉へと向かっていきます。
このときの仏教の受容は、まだ支配者レベルでの話ですが、中央での流行が、地方の庶民レベルにまで及んだものもあります。一般集落でも多量に出土する土師器杯ですが、六世紀には口縁下に稜(りょう・物のかど)がある須恵器杯を模倣したものが、盛行していました。しかし、七世紀になると須恵器模倣杯は姿を消してゆき、入れ替わるように半球形の丸底杯が主流となります。また、その中には器面をヘラ先で磨いて施す、「暗文」という文様が付けられたものも見られます。これらの源流は、六世紀末頃に朝鮮半島から渡来するようになった金属製鋺です。後世に“佐波理”と呼ばれたこの金属製鋺は当時の最高級品であり、その憧れから、畿内では金属製鋺を模した土師器杯が盛行します。暗文は金属器の輝きを表現したものと考えられています。その畿内産土師器の一部は地方に持ち込まれ、今度はそれらが憧れの品として、在地産土師器の造形に強い影響を与えてゆくことになるのです。

▽能満寺裏遺跡出土の在地産の暗文杯。
同遺跡で7世紀の遺物はこの杯のみである。7世紀の同遺跡はすでに古墳群に姿を変えており、古墳のどれかと関係する遺物の可能性もある。
※写真は本紙をご覧ください

(町資料館 風間俊人)

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