文字サイズ
自治体の皆さまへ

[特集2]令和6年3月25日新たに2件 市有形文化財歴史資料に指定しました

2/27

埼玉県吉川市

◆吉川小学校校歌
作詞:千家尊福(せんげたかとみ)(1845~1918年)
出雲大社宮司、歌人、貴族院議員。
明治27年1月から同30年まで埼玉県知事を務める。

作曲:鈴木米次郎(すずきよねじろう)(1868~1940年)
明治から昭和時代前期の音楽教育家、作曲家。現在の東京音楽大学を設立。

一、
うら若竹のふしのまも
(まだ生えたばかりの若竹の、幹が伸び切らずに節が詰まった状態の頃のように、幼いうちから)

庭の教えを守りつつ
(家庭や家業での言いつけを守り)

学びの窓のあけくれに
(学校で日々学んで)

務めて国をも富ませかし
(将来の担い手として[自分だけでなく]日本を豊かにしましょう)

▽芳川尋常(よしかわじんじょう)高等小学校校歌
千家尊福筆

「芳川尋常高等小学校校歌 千家尊福筆」は明治29年、校舎の新築を祝い、当時県知事であった千家尊福から学校に送られた直筆の書です。
吉川小学校の校歌は明治27年に作られ、県内では最古と言われています。学校の統廃合が進む中、130年前に作られ、当時のまま歌われている校歌は、とても貴重です。

○千家尊福と題額
当時県知事だった千家尊福は、明治33年に吉屋地内に建てられた「重修加藤樋之碑」の題額も書いています。
「重修加藤樋之碑」は明治29年の水害で壊れた水路を作り直したことを記念して建てられた碑です。

〈校歌制定〉
今は小学校一校につき必ず校歌がありますが、昔は諸事情により、校歌が作られる時期はさまざまでした。
作曲が出来る人物が限られる明治時代に作曲を依頼し、報酬を支払えた吉川小学校は人脈や財力もあり、教育に対しても熱心な地域だったと思われます。

出典:[写真:千家尊福]岡本雅享(おかもとまさたか)「千家尊福と出雲信仰」
[写真:鈴木米次郎]武石(たけいし)みどり「音楽教育の礎 鈴木米次郎と東洋音楽学校」
※写真は本紙P.4,5をご覧下さい。

◆三輪野江小学校校歌
作詞:土井晩翠(どいばんすい)(1871~1952年)
明治時代から昭和時代の詩人、英文学者。「荒城の月」の作詞者としても知られる。

作曲:下總皖一(しもおさかんいち)(1898~1962年)
作曲家、音楽教育者。北きたさいたまぐんはらみちむら埼玉郡原道村(現加か須ぞ市し)生まれ。作曲の他、日本の近代音楽の基礎を作る。

一、
関東平野 東北に

筑波を眺め 西遠く

富士の霊峰 仰ぎ見みる

わが三輪野江の 学びの舎(や)

▽三輪野江国民学校校歌
原本一式および額

三輪野江小学校の校歌は昭和19年、戦時中に作られました。
時代を反映して、当時は3番の歌詞が「勇武」であったのですが、戦後は「勇気」に変えられました。
そのため、「(1)楽譜」の3番と戦後に書かれた「(4)校歌額」の3番では歌詞が一部違っていることが分かります。

○三輪野江小学校と東京藝術大学
三輪野江小学校が国民学校だった昭和19年、当時の山崎辰蔵(やまざきたつぞう)学校長が、東京音楽学校(現在の東京藝術大学)まで直接足を運び、校歌の作曲を依頼しました。
今でも東京藝術大学には、山崎辰蔵学校長の名刺や土井晩翠直筆の校歌作詞原稿が残されています。

この度は、皆さんにとって身近な小学校校歌に関わる資料を市有形文化財として指定しました。
有識者からは、学校資料調査を行い、市指定文化財にすることは、他市に先駆けた大変有意義なことであると評価されています。
今後も地域の宝である資料を大切に保存し、公開・活用してまいります。

出典:[写真:土井晩翠]土井晩翠顕彰会「土井晩翠―栄光とその生涯」
[写真:下總皖一]加須市
※写真は本紙P.4,5をご覧下さい。

問合せ:生涯学習課
【電話】984・3563

<この記事についてアンケートにご協力ください。>

〒107-0052 東京都港区赤坂2丁目9番11号 オリックス赤坂2丁目ビル

市区町村の広報紙をネットやスマホで マイ広報紙

MENU