◆東京2020オリンピック銀メダリスト 梶原悠未選手 特集
~和光市出身の梶原選手のパリ2024オリンピックと和光市への想い~
和光市に地域貢献していきたいという強い想いを持つ、東京オリンピック2020競技大会の自転車トラックレースで銀メダルを獲得した和光市出身の梶原悠未選手が和光市応援大使に任命されました。新春座談会では、梶原選手に2024年開催のパリ2024オリンピックに向けた抱負や和光市への想いを伺いました。
◇母校での自転車用ヘルメット寄贈式と講演会
梶原 悠未 選手(以下、梶原):6月の世界自転車デーに合わせて、また昨年の4月から自転車用ヘルメットの着用努力義務の法律が施行されたことを受け、着用の意識づけを目的に昨年6月2日に母校である和光市立第五小学校へ自転車用ヘルメットを寄贈し、私自身の夢だった母校での講演会を行いました。
私も小学校4年の時に水泳の北島康介選手からオリンピック選手になるという夢を与えていただいたので、次は私がオリンピックメダリストになって、子どもたちに夢や希望、感動を届けられるアスリートになりたいと思い、ずっと取り組んできました。
今回、母校での講演会が実現できて、子どもたちのキラキラ輝いた目や楽しそうな表情を見て、私自身もパワーをたくさんもらったし、また一つ夢をかなえることができたと実感できました。すごく楽しい1日でした。これからも和光市の小・中学校の子どもたちに講演会を続けていきたいなと思います。
◇昨年11月のサンアゼリアでの講演会
梶原:講演会はすごく緊張しました。終わった後、お客様から素敵な感想をいただいて、よかったなあと思います。
柴﨑 光子 市長(以下、市長):講演会の最後に発表された6か条が印象的で、しっかり守りたいと感じました。「笑顔と感謝を忘れない」、大事な言葉なので胸に刻みたいと思います。
富澤 啓二 議長(以下、議長):講演会で東京オリンピックで銀メダルだったときの喪失感のお話しがありましたが、どのように克服されたのですか。
梶原:東京オリンピックの後、モチベーションを失ってしまって、自分で自分自身を追い込んでしまいました。東京オリンピックまでも、ものすごくハードなトレーニングを積み重ねてきたし、高い壁も何度も乗り越えてきて、いろんな試練に打ち勝ってきました。それでも金メダルを取るためには、この倍の壁を乗り越えなくてはいけない、これからもっとつらい試練がくるんだと、自分を追い込んでしまいました。すごく落ち込んでしまい、力が入らず、レースで踏み込まなくてはいけない場面でなぜか前に行けない状況で、すごく葛藤しました。
でも、克服するためにやり続けたことは、「常に挑戦し続けること」でした。東京オリンピックが終わった2か月後に、新しいリーグがヨーロッパで開催されるため、イギリス、スペイン、リトアニアなど5か国を母と2人で回りました。最初は英語のインタビューが不安で、レースに勝つとインタビューがあるので、勝たないよう自分にブロックをかけていました。母のアドバイスもあって、日本の抹茶のお菓子や緑茶、海外で人気のある日本のボールペンを海外の選手たちにお土産でプレゼントしたんです。すごく喜んでくれて、そこで会話が生まれました。翌週のレースには、自国に帰った選手たちが自国のお土産を持ってきてくれて、そこでまた交流が生まれて、英語でのコミュニケーションを少し克服できて、最終戦で優勝したときは、英語のインタビューに答えられるようになりました。
議長:梶原選手の挑戦するスピリットの根源について教えてください。
梶原:苦手なこともチャレンジを続けることです。小さいころは「できない」ことが嫌でしたが、母に「一緒にやる?」と声をかけられ、苦手なことでもできるようになるまでチャレンジしました。
母の教育は小さいころから「見守る教育」でした。試合やトレーニングを見ても、母は「もっとこうしな」とか「こうした方が良かったんじゃない」ということは言いませんでした。常に見守ってくれていて、「がんばったね」「よくやったね」と言ってくれました。嫌なことを何も言われないから、こちらも嫌にならない。でも、いつも練習に付いてきてくれる。学生時代の競泳の練習の送り迎えも毎日してくれたし、今でも練習に毎日付き添ってくれますが、自転車競技に詳しくなった今でも母からは何も言われませんし、怒られません。先日も2日間で9レース走る、ものすごくハードなレースがあったのですが、私が「苦しい」と言っても、母は「楽しい」と。苦しいこともきついことも、全部「楽しい」「気持ちよい」と。隣でずっとそう言ってもらえると、苦しい状況でも楽しいと感じられるようになって、そのおかげでハードなレースも乗り越えられるのだと思います。
◇梶原選手の和光市での思い出
梶原:小学校や中学校でスポーツテストがあって、私自身、すごく負けず嫌いで、学年1位になりたくて、テストの前に自主練をしていたんです。競泳のクラブチームの練習が終わった後、夜の10時頃から母と一緒に走ったり、ボールを投げたり、反復横跳びをしたり、体育の予習をしていました。そのときの夜の肌寒い感じやにおいは、今でも覚えています。今でも夜に外に出ると、和光市で夜な夜な「こそ練(こっそり練習)」をしていたことを思い出します。普段は走っていなかったので、いきなり走ると肉離れやけがの危険性もあるので、1か月前から誰にも言わず、こそ練をしていました。そのおかげで1位にもなれました。
◇パリ2024年オリンピックへの抱負
梶原:2024年のパリオリンピックでは女子オムニアムの種目で東京オリンピックのリベンジをして、必ず金メダルを和光市に持ち帰りたいと思います。
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