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郷土を知り、郷土を愛する「志木市 歴史さんぽ」-執筆・協力 志木のまち案内人の会-

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埼玉県志木市

■第39回 志木の酒造業
志木市の本町地区は明治7年(1874)以前は引又と呼ばれ、酒造業が盛んに行われていました。引又にて酒造業が栄えた主な理由は次の3点と考えられています。
(1)武蔵野台地の先端に位置していたことで酒造に適した水が豊富に得られた点
(2)米を精白する水車が宝暦10年(1760)以降、野火止用水沿いに多数開業された点
(3)作られた酒を最大消費地の江戸に出荷することができる河岸場があった点
元禄14年(1701)には2軒、天明5年(1785)に4軒、天保14年(1843)には6軒と引又の酒造業者の数は増えていきました。天保14年当時の引又全体の酒造石高(こくだか)は合計で1,568石もの鑑札を得ていました。鑑札とは、江戸時代に酒造業を認可された家に交付された営業権のことで、札には酒造米高が記入されていました。
そんな中、慶応2年(1866)の米価高騰の際に酒造業者が生産制限を課せられたことにより、引又の酒造業もその影響を受け、392石まで減りました。
明治20年代に入ると西山鉄五郎、三上健次郎、佐藤又七、平野定吉の4軒が引又の酒造業を牽引する形になり、各酒造家の主要銘柄は西山家が「花姿・国柱」、三上家は「猩々舞・伊佐川」、佐藤家は「正吉」、平野家は「喜代泉」でした。
埼玉県全体の酒造業は、兵庫県灘(なだ)地区の銘柄「白鶴」「菊正宗」を競合視するほどの大産地でした。明治8年(1875)にいち早く酒造組合を結成し、灘地区に対抗するため、東日本全体の組合設立に向けて主導していきました。その埼玉県酒造組合長を明治30年(1897)から18年間務めたのが西山鉄五郎でした。
埼玉県全体の清酒出荷量は、令和3年(2021)においても県内に34蔵を持ち、全国4位を誇っていますが、残念ながら志木市内に酒蔵は残っていません。
※参考文献:「しき ふるさと史話」、「埼玉産業歴史探訪」

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