■毛呂山と学童疎開(そかい)~手紙に込めた親の気持ち~
昭和20年(1945)8月15日の太平洋戦争終結から、間もなく79年が経(た)ちます。当時の日本が、最初に空襲(くうしゅう)に遭(あ)った昭和17年(1942)4月以降、戦局が悪化してくると、都市部から友達や家族と別れ、地方の親せきなどを頼って疎開する児童がいました。そして、さらに昭和19年(1944)になると、国民学校の児童が集団で疎開する学童疎開が行われるようになりました。今から80年前の昭和19年8月、毛呂山町にも東京市日本橋区東華(とうか)国民学校の児童が、長栄寺(ちょうえいじ)(小田谷)に4年生男女と6年生男子合わせて100人、高福寺(こうふくじ)(滝ノ入)に6年生女子55人が疎開してきました。また、5、6年生男子55人、3年生男女と5年生女子約80人もそれぞれ現在の坂戸市内や越生町内に疎開しました。
疎開してきた児童は、慣(な)れない土地での生活に苦労しましたが、受け入れ側の毛呂山町では、地元の人たちが献身的(けんしんてき)に泊まり込みで炊事(すいじ)などの世話をしました。長栄寺に疎開した児童は、近くの家に二人一組で宿泊することもありましたが、日ごろ食べていた雑炊(ぞうすい)ではなく、白米を食べさせたということです。当時疎開していた児童は、実家から送られてくる布団(ふとん)の縫(ぬい)目の糸に母の温(ぬく)もりを感じ取ったり、親からの手紙に励(はげ)まされたそうです。
「…布団に余裕がなく、少しずつ綿を集めて布団を仕立てたため薄物ですが、寒さに耐えてください。戦争は必ず終わるから。それまで辛抱して、風邪に気を付けなさい。」
手紙の検閲(けんえつ)は厳しく、疎開は辛(つら)い、寂(さび)しいなどの感傷的な内容は好ましくないとされていました。家族は、検閲に触(ふ)れないよう、我が子に思いを届ける工夫をしていました。4年生と6年生の女子が疎開していた父親は、寂しい気持ちを、飼いネコ「タマ」の言葉を借りて綴(つづ)っています。『タマ吉通信』と題した手紙には「…近頃はもう、すっかりさびしくなったもんだからタマやをいぢめるどころぢゃありません、トモマリ様の代わりに可愛いくてしかたがないと云(い)う風に大事に大事にして下さるんです…」
高福寺に疎開していた6年生は、受験のため昭和20年3月2日に東京に戻(もど)りました。そして8日後の3月10日、10万人以上が犠牲となった東京大空襲に見舞われてしまいました。
<この記事についてアンケートにご協力ください。>