■資料がかたる行田の歴史58
▽花粉が教える忍城の景観変化
「古(いにしえ)を考える」考古学は、土の下に眠っているさまざまな資料を扱います。土器や石器などの一般的な出土資料だけではなく、土に含まれている目には見えない小さな物質にも、昔の人々の暮らしや地域の環境を知る手掛かりとなる情報があります。
昭和60年〜62年にかけて行われた忍城跡遺跡第一・二次発掘調査でも、土に含まれていた火山灰や花粉の科学分析が行われました。この調査では、本丸と諏訪曲輪、二の丸を隔てる堀と、そこに架けられた橋などが検出されています。二の丸との間の堀は幅25メートル以上、忍城が造られた室町時代から城下町が栄えた江戸時代にかけて何度か掘り直され、橋が架け替えられていることが分かりました。そして、堀の周囲に堆積していた土には、1783年の噴火による浅間山の火山灰や、その当時に忍城を囲んでいた植物の花粉などが多く含まれていたのです。
16世紀前半、忍城ができて間もないころの土層からは、マメ科のサイカチという木やエノキ、ムクノキといった樹木の花粉が検出されました。これらの樹木は、森林というよりは林程度の植生だったと考えられ、湿地という土地柄からは一般的なものです。そして18世紀以降になると、土層に含まれる花粉は城郭でよく見かけるマツやスギといった針葉樹の花粉へと変わっていきました。廃城直前、明治6年に描かれた忍城の鳥瞰(かん)図には、そうした針葉樹に囲まれた忍城の姿が描かれています。この変化には、その時代に架けられていた橋の部材も関わっているようです。近場で部材を調達したのか、最初の橋の部材にはサイカチが用いられていました。しかし後世に城郭の整備が進んでくると、橋には部材として優れたスギ材が用いられたことが出土した木材の分析から指摘されています。
忍城を囲む植生の変化は、城らしい景観を整えるとともに実用的な意味もあったようです。
参考文献:一九八九『行田市郷土博物館研究報告Vol.1』行田市郷土博物館
郷土博物館 浅見貴子
<この記事についてアンケートにご協力ください。>