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行田歴史系譜362

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埼玉県行田市

■資料がかたる行田の歴史62
▽忍米(おしまい)のお味はいかが?〜江戸時代の忍藩年貢米のゆくえ〜
江戸時代、村々で収穫されたお米のうち、約半分は現代の租税に当たる年貢米として領主に納められました。うち実際に領主が食べる御飯米(ごはんまい)を除いた分については、江戸や行田周辺などで売却され、市場で取引されました。特に忍藩の年貢米は市場では“忍米(おしまい)”と呼ばれていました。
当時の忍米の取り扱いを知る手掛かりとして、天明7(1787)年12月、行田町で米穀商を営んでいた浜名屋元八が秩父大宮の亀屋太右衛門に宛てた古文書をみてみましょう。要点を現代語にすると「2年前に金200両であなたに先売りしていた忍藩の年貢米ですが、“砂降(すなふり)”で領内のほとんどが不作になってしまいました。年貢米を未だお渡しすることができないので、その代金を10年賦で返金させてください」と書かれています。本文中の„砂降“とは天明3(1783)年5〜8月に起こった浅間山の大噴火のことです。噴火は広範囲にわたり農作物の生育に大きな影響を及ぼす火山灰を降らせました。忍藩領も例外ではなく、噴火以後は不作が続きました。
古文書の内容によると、年貢米は浜名屋元八によって金200両で先売りされていたとあります。年貢米という毎年安定して集積される米穀は、商人にとって先売りが可能な取引商品でもあったことが分かります。しかも、武蔵国で安定した市場価値をもっていた忍米は、当時のブランド米として流通していたといえるでしょう。
ところで、全国のお米を番付にした嘉永4(1851)年の「諸国豊作一覧」(郷土博物館蔵)をみると、「武州忍蔵米」は前頭(まえがしら)であるのに対し、「勢州忍領米」はそれよりも上位の大関にランク付けされています。江戸時代後期の忍藩には、伊勢国桑名にも分領があったため、そこで収穫されたお米も、ともに上質な忍米として流通していたのです。
(郷土博物館 澤村怜薫)

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