■資料がかたる行田の歴史66
▽かつて須加の水田に埋もれていた古墳
〜東京国立博物館所蔵資料から〜
須加地区には、かつて古墳がいくつか存在しており、大稲荷(おおどうか)古墳群を形成していました。しかし、開墾や土取りにより、現在その姿を見ることはできません。
遡(さかのぼ)ること約100年前、大正時代に一基の古墳(大稲荷1号墳)が須加地区から発見されました。その発見は当時の新聞で取り上げられるほどの出来事であり、稲荷神社跡の小高いところを切り崩した際に、長さ約2.1メートル、幅約0.7メートル、高さ約0.6メートルの石棺が現れたとのことです。石棺の中からは、鉄刀、鏡2面の他2品が一緒に出土したとされています。その中の鹿角装刀子(ろっかくそうとうす)と四獣鏡は、発見者によって現在の東京国立博物館に寄贈され、収蔵されています。
鹿角装刀子(写真)とは、手で握る柄の部分をシカの角で作った小刀のことです。全体の長さは約12.2センチメートルで、刃部は鉄製で錆が見られ、切先がわずかに欠けているようです。刃部の長さは約3.5センチメートルと短く、鹿角の柄が長くなっています。四獣鏡は面径約11.6センチメートルの小型の青銅製の鏡です。
その後、この古墳は昭和44(1969)年の緊急発掘調査で水田の下から埴輪列などが発見され、径約26メートルの円墳と推定されました。出土遺物から5世紀後葉の築造と考えられ、埼玉古墳群の始まりとほぼ同時期であることから、埼玉古墳群とどのような関係があったのかを考えさせられます。
この地区では、地殻変動や河川の氾濫の影響により遺跡が地中深くに埋もれていたため、現在までに古墳以外は、ほとんど発見されていませんでした。しかし近年、本市の利根川沿いでは、堤防強化対策事業に伴う埋蔵文化財の発掘調査によって、新たにいくつかの集落遺跡が発見されています。その最新の調査の進展により、須加地区の埋まっていた歴史の一端がさらに明らかにされていくでしょう。
(郷土博物館 篠田泰輔)
※写真は本紙をご覧ください。
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