■「府中」地域をどう描くか 江戸時代の谷山池用水争論(1)
新刊『和泉市の歴史』第5巻を紹介するシリーズ。「府中」地域の江戸時代について、今月・来月と二回連続でみていきましょう。
府中を中心とする平野部は、他の横山・松尾・池田・信太地域と異なり、自然地形による明確な区分がありません。このような特徴をもった江戸時代の「府中」地域をどう描くのか、その範囲は?貫(つらぬ)く軸は?この問いは難しく、多くの議論を重ねました。その結果、谷山池用水をめぐる秩序と争論を一つの軸に設定するに至りました。
「府中」地域の人びとの生産と生活にとって槙尾川と谷山池の水は不可欠であり、用水組合の秩序はこの地域を考えるうえで重要だからです。
平野部の村むらは、普段は槙尾川に設けた井堰(いぜき)から川水を引いて灌漑(かんがい)しましたが、渇水の年には谷山池の樋(ひ)を抜いて槙尾川に水を流し利用しました。谷山池用水を利用できる井堰は6か所あり、10か村が、組合を形成していました。すなわち、一ノ井(いちのい)堰は池田下村、太田井堰は坂本・今在家(いまざいけ)(現在の芦部町)村、こうこうず井堰は黒鳥・府中村、久保津戸(くぼつと)井堰は観音寺・寺門・今福・和気村、東風川(こちがわ)井堰は桑原村、桑畑井堰は府中村です。
江戸時代の谷山池用水組合の秩序の大枠は、享保三(一七一八)年から9年間にわたる争論を経て、享保一二(一七二七)年八月に大坂町奉行所から出された裁許(さいきょ)によって定まりました。この争論は、2つの対立が絡み合って進行しました。一つは谷山池の堤の修復普請(ふしん)(工事)をめぐる、こうこうず井の2か村と他の8か村の対立、もう一つは、どちらが上流で水を引くかをめぐるこうこうず井と久保津戸井との対立です。
まず一つ目の堤普請をめぐる対立からみていきましょう。ここでは、「水掛(みずかか)り役田数(やくでんすう)」108町(ちょう)という数字が、用水を利用する面積を示すものか、あるいは谷山池の堤を維持する経費負担の基準であるか、という点に論点が集約されました。
108町のうち、こうこうず井が40町(府中村30町、黒鳥村10町)を有し、加えて府中村は桑畑井分の18町もありました。全体の半分以上の役田数を占める府中・黒鳥2か村は、役田数は利用と負担両方の基準であると主張しましたが、他の8か村は実際の利用面積は別であり、負担だけの基準だと主張しました。
そこで、町奉行所の役人が双方の主張による取水方法を試しました。すると、こうこうず井(府中・黒鳥村)が主張する方法では水の利用基準に合わないことが判明し、こうこうず井の主張は退けられました。しかし一方でこうこうず井の役田を10町分減らし、久保津戸井の役田を10町分増やすことで、こうこうず井の負担を減らす措置が取られました。こうして双方の利害の調整が図られたのです(次号へ続く)。
文:市史編さん委員 塚田孝
問合せ:市史編さん室
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