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市史だより Vol.296

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大阪府和泉市

■藩主不在の一大事 幕末の大阪湾警衛と伯太藩
市史編さん室では、江戸時代の伯太村に陣屋をおいた伯太藩の史料を保管しています。
今回は幕末の対外危機の中、藩が幕府から命じられた大阪湾の警衛について見ていきましょう。

文久3(1863)年5月10日、長州藩が下関でアメリカの商船を砲撃するという事件が起きます。それを皮切りに、長州藩はフランス、オランダの軍艦を次つぎに攻撃、これへの報復としてアメリカ・フランスの軍艦が長州藩の砲台を攻撃しました。
伯太藩の幕末の記録「御警衛一件留(ごけいえいいっけんどめ」は、まさにこの直後の日の記述から始まります。6月10日正午、伯太藩代官石井新之助は大坂城代(じょうだい)松平伊豆守からの呼び出しに応じ、登城します。石井は城内でまず「公方(くぼう)様」が無事大坂に到着したことにお悦びを申し上げています。14代将軍家いえ茂もちが京都からの帰途(きと)、大坂城に入城していたのです。
その後石井は大坂城代上屋敷(かみやしき)使者の間において城代公用人福島豊治から命令を受けました。それは、外国艦が襲来した時に備え、沿岸の警衛をするように、との内容でした。伯太藩の担当は下条大津・宇多大津・忠岡・磯上村の沿岸で、他に岸和田藩、河内狭山藩、近江西大路(にしょうじ)藩、摂津麻田藩がそれぞれ担当の沿岸の警衛を申し渡されました。
石井は沿岸警衛の命令に対し、ただちに従う意思を示すことはできませんでした。藩主渡辺章綱(あきつな)が参勤交代で江戸にいたからです。石井は早飛脚(はやびきゃく)で江戸藩邸にうかがいを立て、藩主の意思を受けた上で返答すると城代に申し上げます。城代もそれに理解を示し返答を猶予しました。
将軍・城代という権威を前にしても、石井は渡辺家家臣としてまずは藩主の意思を仰ぎました。この点は、当時の大名家と幕府の関係の一端を示していて面白いと思います。
石井ら家臣は藩主の意思決定を受けられないまま、苦慮しつつ対応に当たることになります。
当時の緊迫した状況にあって、朝廷側は外国艦を「無二念打払(むにねんうちはらい)」(ちゅうちょなく外敵を退ける)という強硬な態度で臨みました。一方、幕府老中は6月20日に大坂城代へ次のような指示を出しています。「外国にむやみに発砲すれば『国辱(こくじょく)』を引き起こすことになる、今は平穏に対応せよ、もし外国から攻撃の様子があってもよく考えて行動するように」。『国辱』の解釈は様ざまですが、幕府は外国に対して慎重な対応をとるよう、念には念を押して注意を促したことがわかります。
この老中の指示が大坂城代から伯太藩に達したのは6月26日。「御警衛一件留」の記述はこの日付けで終わっており、この後の動向は不明です。
翌年、長州藩と幕府勢が京都で武力衝突する「蛤御門(はまぐりごもん)の変」が起きます。この時伯太藩はどのように行動したのか、それはまた別の機会にみることにしましょう。

問合せ:市史編さん室
【電話】44・9221

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