■神様のお化粧直し 百年前の五社惣社(ごしゃそうじゃ)本殿
市史紀要第33集『重要文化財泉井上神社境内社和泉五社惣社本殿修理報告書』を刊行しました。
今回は、修理を通じて明らかになった五社惣社本殿の歴史を紹介しましょう。
2020年から約2年半かけて、泉井上神社(府中町)境内にある五社惣社本殿(ほんでん)の修理が行われました。正面桁行三間(しょうめんけたゆきさんけん)、身舎(しんしゃ)側面二間、屋根が前へ延びて庇(ひさし)をなす、三間社流造(ながれづくり)と呼ばれる姿です。修理により、屋根の桧皮(ひわだ)が葺き替えられ、彩色も豊かに蘇りました。
和泉国(いずみのくに)の五社(大鳥・聖・穴師(あなし)・積川(つがわ)・日根)を併せ祀る五社惣社は、一二世紀頃に成立したとされています。建物は慶長10(1605)年に、豊臣秀頼により片桐且元(かつもと)を奉行にして再建されました。
1924(大正13)年に国宝(重要文化財の前身)に指定された当時の写真をみると、驚くことに、今の建物とは別の神社と見紛(みまご)うほどに違っています。三間社は同じですが、正面には、お城にあるような破風(はふ)があり、屋根には千木(ちぎ)・鰹木(かつおぎ)みえ、しかも茅葺(かやぶ)きでした。
現在の姿に変わるのは、1943(昭和18)年です。このときも修理にともなう解体調査が行われ、江戸時代に手が加えられていることが判明しました。そこで泉井上神社に伝わる天保3(1830)年修復記録や寛政8(1796)年刊行の「和泉名所図会(ずえ)」を参考に、慶長の再建当時の姿への復元がめざされました。
その際、屋根の構造については、五社惣社に隣接して建てられていた八幡社(はちまんしゃ)が参考にされました。破風や千木・鰹木などは後で付け加えたものと判断され、取り除かれました。
しかし、そもそも江戸時代の五社惣社の本殿は、現在や大正期よりも一回り大きく、三間社でなく五間社(ごけんしゃ)でした。つまり、社殿は明治時代に縮小されていたのです。この縮小は、維新政府が神社・寺院の統廃合を進めるなか、明治3(1870)年に行われました。
神社の荘厳を保つことを求められた五社惣社を祀る府中村の人びとは、本殿を小さくし、隣接する八幡社を合祀しました。その際、八幡社(三間社)の建物の上に、五社惣社の屋根を被(かぶ)せ(破風・千木あり)、一つの社に合体させたのです。あわせて泉井上神社と改称し、五社惣社は境内末社と変更しました。
その後、泉井上神社は1895(明治28)年に本殿を新設して移転し、五社惣社は場所をそのままに独立しました。大正期に撮影された五社惣社の姿は、積み重ねられた歴史のひとこまを映し出していたのです。
問合せ:市史編さん室
【電話】44・9221
<この記事についてアンケートにご協力ください。>