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浪速区制100周年プレ企画 ルッバック なにわ区(1)

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大阪府大阪市浪速区 クリエイティブ・コモンズ

■第6回 敷津地域
2025 令和7年、浪速区は区制100周年を迎えます。その節目に先立ち、浪速区の歴史を区内11地域の皆さんと座談会で振り返る連載企画です。第6回では、敷津地域の皆さんに当時の思い出やエピソードなどを伺いました。

参加者 上田典子さん、小池喜代蔵さん、松田篤司さん、松尾武司さん 前列左から森近民子さん、下野喜一さん、米田弘明さん、幡多区長

■古くから市民生活を支えてきた大阪の台所 大阪木津卸売市場
▽区長 まず、昔々の敷津地域について教えてください。
▽米田さん 浪速区ができる前は、西成郡木津村という地名だったと聞いています。畑が多くて、確か葱 ねぎがたくさん作られていたと思います。
▽松尾さん 大阪木津卸売市場 以下、木津市場ができたのは1800年代の初めだそうで古い歴史があります。当時の市場はだいこく神社の西北部一帯にあって、市場で働く人やその家族が市場のあたりに住んでいたそうです。

◇深ぼり 大阪木津卸売市場
大正時代には1都市1市場を原則とする中央卸売市場制度が導入され、多くの市場が統合・閉鎖されましたが、木津卸売市場は存続運動を展開し、1931 昭和6年に大阪中央市場の木津配給所として独自の運営を確保しました。その後、1938 昭和13年に現在の場所に移転し、戦災後も完全民営の卸売市場として再開場を果たします。2010 平成22年にはリニューアルオープンされ、現在では日本最大級の民間地方卸売市場として運営されています。

▽区長 そして今の場所に移転したのは1938 昭和13年のことだと聞いています。でも1945 昭和20年3月の空襲で焼けてしまうんですね。
▽下野さん 私は1951 昭和26年生まれで、生まれてすぐに大阪に来ました。子どもの頃はまだ、焼け野原の跡は草原が広がっていました。でも家の基礎は残っていて、そこで野菜を植えたりしていました。
当時はどこもバラックばかりでした。ところが小学校4年生の時にそのバラックがみな消えて、そこに住んでいた友だちもいなくなりました。また、高速道路ができることになって、新川の土手の上 今の木津市場の東側あたりに家を建てて商売をしていた人は立ち退きで、皆敷津地域に引っ越して来られました。
▽米田さん 今、高速道路から下りてきたところには昔、大八車が並んでおり、木津市場で野菜や果物、魚を仕入れて売りに行く行商の人たちがいました。
▽下野さん 木津市場は空襲で焼けてしまいましたが、1950 昭和25年に地元の有志によって再開されました。トタン屋根のボロボロの市場でしたけど、とても繁盛して、民間の卸売市場としては日本最大級の規模を誇る市場となり、あたりには市場の関係者がたくさん住んでいました。
▽区長 そのお子さんたちも通った敷津小学校は今年、150周年を迎えます。
▽松尾さん 敷津小学校は最初、唯専寺(ゆいせんじ)につくられ、木津市場の中に移転し、その後、今の場所に移転しました。

◇深ぼり 唯専寺 ゆいせんじ
用命天皇 在位585から587年の時代、天種子命 あめのたねこのみことの子孫である迹見赤擣 とみのいちいが四天王寺建立の際に木津浦に草庵を構えたと伝えられています。
寺は1606 慶長11年に現在地に移転し、度重なる火災と再建を経験しました。さらには1945 昭和20年の空襲で全焼しましたが、本尊は無事でした。寺には木津勘助の墓があり、彼の功績を称える碑も残されています。

■地域の力で学校設備を充実
▽森近さん 私は1951 昭和26年にここに来て、小学校の2年、3年生の時はだいこく小学校に通いましたが、児童の人数が増えたので、今の国道25号ができたときに私たち北側に住んでいた子どもは敷津小学校へ行くことになりました。
敷津小学校が再開される前は、四角い、ふさのついた制帽の学校が入っていたんですよ。
▽米田さん 教育大の附属小学校のことですね。
▽松尾さん 敷津小学校を再開校した時、学校には全然、設備がありませんでした。有志がたくさん寄付をしていろいろと設備もできたんですが、それでも足りないので父兄が今宮戎神社の十日戎(Iとおかえびす)の時に笹売りをすることにしました。でもあまり儲からなかったので次は飴売りをすることになりました。最高の時は、2日間で500万円くらいの売り上げがありました。そのお金で小学校の図書館とか、私たちの時代はカラーテレビとか、そういったものを増やしていきました。
▽小池さん 小学校には放送部があって、授業が終わって昼休みに入ったら音楽をかけていました。
▽松尾さん その放送設備も地域からの寄付なんです。
区長 学校に満足な設備がないからPTAで稼ごうというのは、すごいですね。

昭和11年 大阪市敷津尋常高等小学校当時の校舎
昭和48年 再開校20周年当時の正門
出典 創立130周年記念誌シキツ

▽松尾さん その当時、そういった活動を皆さんにも知ってもらいたいと思って話し合い、敷津地域の広報紙敷津友愛を1989 平成元年から作るようになりました。これなら各家庭に行きますのでね。それから毎年発行して今では34号になっています。
▽区長 敷津地域には国道25号線が通っていたり、地下鉄だいこく町駅もあります。昔は市電も走っていました。
▽松尾さん ちょうどだいこく神社の前に大黒神社前という市電の駅があったそうですよ。
▽区長 だいこく町やだいこく神社のだいこくではなく、大黒天の大黒だったんですね。
▽小池さん 市電は行先によって車両の形が違うんです。桜川のほうに行く市電はランプが上のほうについていましたが、別の路線の市電は下のほうにランプがついていました。
▽松田さん 私は昭和30年代の生まれですが、地下鉄のだいこく町駅の外で女性が地下鉄の切符を売っていたことをよく覚えています。寒い時は手袋を半分切って、指だけ出して売っていました。交通局の人ではないんです。一般の女性が生活のために11枚つづりの回数券をバラして売っていたんです。

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