■第7回 塩草地域
2025 令和7年、浪速区は区制100周年を迎えます。その節目に先立ち、浪速区の歴史を区内11地域の皆さんと座談会で振り返る連載企画です。第7回では、塩草地域の皆さんに当時の思い出やエピソードなどを伺いました。
参加者:後列左から中川恂さん、辻本くにひろさん 前列左から 小川進さん、幡多区長、樫原実男さん、幡地郁雄さん、辻本康子さん
1986 昭和61年 塩草小学校新校舎竣工記念
■戦前の塩草のまち
▽樫原さん
実は今日、貝殻を持ってきました。平成9年に塩草3丁目にマンションを建てた際、地下15メートルのところから出たもので、ここが昔、海だったことを証明しています。
また、1843 天保14年当時の地図をみると、いたち川という川が流れています。塩草地域は一面、ねぎばたけだったようです。
私は1938 昭和13年の生まれですが、子どもの頃、近くに桜川キネマという映画館がありましたし、市電の電車道 今のあみだ池筋に面して芦原貯蓄銀行がありました。銀行の東側の通りは塩草では1番賑やかな通りで、赤手拭いのお稲荷さんに続いていました。
赤手拭稲荷神社は戦前、今の3倍くらいの大きさがありました。毎月、何日間か夜店が出て、とても賑やかでした。
1843 天保14年当時の浪速区付近図 浪速区史より
▽幡地さん
徳川家康が伊賀越えをして逃げる際、赤手拭稲荷神社に身を隠したと聞きました。
▽樫原さん
徳川家康は、明智光秀が謀反を起こした時に、京都から堺まで逃げる途中で、この辺を通ったのかもしれませんね。
電車道 今のあみだ池筋を南に下ると芦原橋がありました。今、環状線の芦原橋駅を降りると、桜川寄りのところに自転車の駐輪場がありますが、ちょうどそこに橋があって、橋の下には鼬川が流れていました。
◇ふかぼり。赤手拭稲荷神社
祭神は、とようけのおおかみ ほか さんじんで、紅染の手拭を祠前に供えたことから赤手拭稲荷といわれるようになりました。1945 昭和20年3月の空襲でご神体を残し焼失、現在の本殿は1948 昭和23年に再建されました。
■たかばしと蒸気機関車
▽区長
1889 明治22年には湊町駅 のちのJR難波駅ができ、大阪鉄道 後に国鉄に吸収が柏原までの区間を開通しました。
▽樫原さん
湊町駅から南へ伸びる線路の上にたかばしが東西に架かっていました。貨物駅をまたぐ歩道橋のようなものです。その辺りは踏切がなかったので、皆、それを使っていました。
私たちはたかばしの上から、蒸気機関車の先に係員が乗って、手に青色と赤色の旗を持って貨物の差し替え、入れ替えを行うのを見ていました。
▽中川さん
戦後ですが、私らも小さい頃はたかばしの上から、汽車が煙を吐いて通るのをよく見ていました。汽車が煙を吐くと真っ黒な煙が出て、面白かったんです。
▽区長
湊町駅からは人も運んでいたんですよね。
▽辻本康子さん
いちにちに1本、湊町駅からやまとという東京行きの夜行列車が出ていました。母は毎週、金曜日の夜にやまとを利用していました。東京にあねが嫁いでまだ間もないから、心配でのぞきに行ってたんですね。
■塩草の偉人 司馬遼太郎
▽区長
浪速区が生んだ偉大な人物の1人に、司馬遼太郎さんがいます。
▽樫原さん
塩草小学校の第2グラウンドの北側に福田薬局があり、そこの息子が司馬遼太郎さんで、塩草小学校の卒業生だと聞いています。
▽小川さん
今日は、うえのみや中学の時に書いた司馬さんの作文が見つかったという、2007 平成19年に掲載された産経新聞の記事を持ってきました。
▽辻本くにひろさん
作文の作者の福田定一というのが司馬さんの本名ですね。
▽区長
記事には小学校についての記載はありませんが、浪速区で生まれたことや父親が薬局を営んでいたことが書かれています。
◇ふかぼり。しばりょうたろう
1923 大正12年生まれ。大阪外国語学校 蒙古語 部 のち大阪外大、現大阪大学外国語学部を卒業し、1960 昭和35年、梟の城で直木賞を受賞。そのほかりょうまがゆく、国盗り物語による菊池寛賞はじめ、多くの賞を受賞する。坂の上の雲、菜の花の沖といった小説、街道をゆく、この国のかたちなど多数の作品がある。注 参照司馬遼太郎記念館ホームページより
旧制うえのみや中学の校友会雑誌に掲載された司馬遼太郎さんが13歳のときの作文 物干臺 ものほしだいに立つてには、難波警察署や稲荷小学校など、浪速区の自宅とみられる建物の物干し台から見た風景が描かれている。注 参照2007 平成19年7月28日産業経済新聞より
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