■第1回 だいこく地域
浪速区は、1925 大正14年4月1日に誕生し、2025 令和7年に区制100周年を迎えます。その節目に先立ち、浪速区の歴史を振り返る特別企画がスタート。
区内11地域の皆さんと座談会を行い、当時の思い出やエピソードなどを伺います。
◆賑やかだった戦前のだいこく地域
区長 まずは戦前のだいこく地域について教えてください。資料によると、この地域に1903 明治36年に私立のせいき商業学校が開設され、1919 大正8年には裁判所や共同宿泊所、簡易食堂、職業紹介所、児童相談所ができたとあります。
冨岡さん 小さい頃、せいき商業高校 現大阪学芸高等学校があったことは覚えています。現在の今宮高校の南東にあり、相撲が強くて、全国大会にも出ていました。またその近くに保健所がありました。噴水がある洋風の建物でした。当時は役所ものんびりしていて、子どもの頃はよく遊びに行き、脚気 かっけを調べる道具を持ち出してあちこち叩きまわっては叱られていました。
また、以前は現在の戎公園の南側に法務局があり、司法書士の事務所もたくさん集まっていました。
川口 幸信 さん 戦前は、だいこく交差点のところに映画館があったと聞いたことがあります。
区長 そのあたりでは月に2回夜店が開かれていて、多くのかたが楽しみにされていたようですね。
◆区を襲った大空襲と大型台風
区長 大阪市は1945 昭和20年3月の空襲で大きな被害を受け、浪速区では区域の約93%が焼けてしまいました。
寺田 まもる さん 戦時中はどの家も防火用水を貯めていました。大空襲の夜、火を避けるために家から持ち出した布団を行く先々の防火用水に浸し、頭からかぶって必死で逃げたのを覚えています。地下鉄だいこく町駅まで逃げて、空襲が止むまで駅の中にいました。後で知りましたが、当時は空襲があっても駅の中に人を入れないことになっていましたが、駅員さんがみんなを気の毒に思い、特別に開放してくれたそうです。
川口 幸信 さん だいこく地域で焼け残ったのはだいこく小学校と、わずかなビルくらいではないでしょうか。
宮本さん 1回の空襲で焼けたのではないらしいですね。
寺田 まもる さん このあたりは空襲が4回ほどあって、それで焼け尽くされたのだと思います。
区長 戦争が終わってほっとしたのもつかの間、1950 昭和25年にはジェーン台風がやってきたそうですね。
冨岡さん あの台風は本当に風が強くて、父親が床からはがした畳を窓のガラス戸に中から立てかけて、強く押さえつけていたのを覚えています。
川口 幸信 さん 当時はバラックの家が多く、風でトタン屋根がたくさん飛んでいきました。
大西さん 1961 昭和36年の第2室戸台風の時は、家族でだいこく小学校に避難したのを覚えています。
宮本さん 当時、私の家は勘助湯という風呂屋を営んでおり、台風の時は停電で風呂場が真っ暗になると、あちこちにたくさんロウソクを立てていました。
◆区画整理と町名の移り変わり
区長 戦後、大阪市は市民の皆さんと区画整理事業にとりかかりました。
宮本さん 昔この地域は準工業地域で、印刷工場や運送会社、自動車の整備工場、木工所などもたくさんありました。だいこく地域の道路の道幅が他の地域より広いのは、そのためではないかと思います。
区長 区画整理でだいこく地域にも公園ができましたね。
宮本さん だいこく町南公園は以前、道路や信号機が設置された交通公園でした。年に1回、小学校の授業で訪れて交通ルールの勉強をしました。だいこく小学校が建替えられた頃まであったと思います。
寺田 まもる さん だいこく小学校にはお宝があります。ちこうへいしんと書かれた書画で、その為書きにあの有名な犬養毅の署名が記されています。この地域の有力者が上京した際、頼んで書いてもらったのではないかと思います。
区長 さきほど勘助湯のお話が出ましたが、かつてあった勘助町という町名は、浪速区ゆかりの木津勘助さんにちなんでつけられたのでしょうか。
寺田 まもる さん 市電やバスの停留所にも勘助町という名前がついていました。今でも勘助屋商店という靴屋さんが残っています。
園田さん 勘助音頭という曲もあって、地域の地蔵盆や願泉寺の幼稚園の盆踊りでよく踊っていました。作曲があの服部良一というのがすごいですよね。
区長 服部良一作曲なんですか。一度みんなで聞き直してみたいですね。
中田さん 昭和40年前後には、勘助湯のほかにもだいこく湯、宮津湯など銭湯がたくさんありました。
<この記事についてアンケートにご協力ください。>