◇台風被害と戦後の区画整理
区長 そして戦後、浪速区は区民の皆さんとともに土地区画整理事業にとりかかりましたが、大きな台風被害にも悩まされました。
いがみさん 6歳くらいの時にジェーン台風の被害に遭いました。当時、元町1丁目に住んでいましたが、畳の上に座っていたら畳ごと飛ばされました。家が木造で東と西で高低差があり、下から風が吹きこんで床が持ち上げられたのです。それで、千日前に住んでいた叔母の家に逃げようと家族でタクシーに乗りました。当時のタクシーはフォードの大きな車でしたが、かつての大阪歌舞伎座のあたり 現ビックカメラなんば店あたりで、タクシーごと10メートルほど風に飛ばされて、地面に落ちたのを覚えています。
たけたちさん 区画整理で土地を持っている者は皆、多い所では所有地の3割以上の土地を提供し、そのおかげで道路や公園ができました。区画整理後は消防自動車が通れない土地はなくなりました。浪速区は空襲でほとんど焼けて土地だけが残ったので、わりと早く復興したのではないかと思います。
木村さん 昔は関西本線が地上を走っていて、踏切が1か所、跨線橋もあったと思いますが、渡る場所があまりなかったので、子どもの頃は一度も西の方に行ったことがありませんでした。区画整理で広い道ができて、西の方にも行きやすくなりました。
区長 今のJR難波駅は地下にありますが、昔は地上にあって湊町駅という名前でした。その頃のエピソードがあれば教えてください。
たけたちさん 昭和30年 1955年頃、結婚式を終えた新婚夫婦が夜、湊町駅からやまとという特急に乗って新婚旅行に出かけるのをよく見送りに行きました。あの頃の新婚旅行は熱海や伊豆のあたりが多かったと思います。
いがみさん 私も昭和38 1963年に東京に進学するときやまとに乗りましたが、多くの人たちが湊町駅まで来て万歳三唱して送り出してくれました。
◇変わりゆく南海なんば駅周辺
区長 ところで、南海電鉄の難波駅から南のあたりも大きく変わりました。
木村さん 今、高速道路が走っている下には昔、新川というどぶ川があり、そこでザリガニやカエルを釣りました。髙島屋の西の方に蓬莱などの店がありましたが、あの辺りの家は皆、どぶ川に背を向ける形で西側を正面にしていましたが、高速道路ができてきれいになったので、いつのまにか東側が正面になっています。
今のなんばパークスのところには昔、大阪球場がありました。子どものときは南海ホークス友の会に入っていたので月2回、無料で球場に入れました。球場の下には、スケートリンクや卓球場、こどもスポーツクラブなど民間の施設が入っていました。
・深堀り 難波御蔵・難波新川跡
江戸時代、災害時の救援米の備蓄と年貢米の集散を兼ねた難波御藏がつくられました。明治になって廃止され、跡地に専売局のたばこ工場がつくられましたが戦争で焼失。戦後になり大阪球場が建設され、その後なんばパークスに生まれ変わりました。難波新川は、難波御蔵への運搬のために道頓堀川から堀を開削してつくられた運河でした。戦後、川は埋め立てられ、その跡地の上に阪神高速道路が建設されました。
いがみさん 球場の東側には昭和25 1950年に大きな難波プールができました。弟が小学2年生の時、近所の子どもを集めてプールに連れて行く時、車に轢かれて亡くなりました。父が小学校にプールがあればこんなことにはならなかったのにと言って、昭和32 1957年に学校、役所にプール建設のお願い・陳情を行い、浪速区の小学校では元町小学校のプールが1番早くできたと記憶しています。
区長 以前、この地域には難波小学校と元町小学校の2つの小学校がありましたが、児童の数が減ったため統合し、難波元町小学校として開校しました。大阪市では初めての出来事だったと伺っています。
たけたちさん 今は我孫子に移転しましたが昔、月江院という大きな寺がありました。その寺のなかに難波小学校が生まれました。今、その跡地に浪速スポーツセンターが建っています。
区長 浪速スポーツセンターは難波小学校の跡地につくられたんですね。ところで、センターのある難波地域の町名は、以前は難波中ではなかったと聞きました。
木村さん 難波中は、もとは新川という町名でした。区画整理の時にいったん新川という町名に決まりましたが、難波という名前がついていないと、新川ではどこのことかわからないということで難波中に決まりました。
昔は、船出町という町名もありました。船が出てきた 発掘されたので船出町と名付けられました。髙島屋船出別館という建物も、今の住宅展示場のところにありました。今ではその町名もなくなり、そのこともほとんど知られていません。
・深堀り 鼬 いたち川くり船発掘の地の碑
明治11年 1878年、いたち川と難波新川の貫通工事中に全長8メートル程のくり船 1本の木をくりぬいた船が発掘されました。前後2本の楠でつくられ、継ぎ目の部分は釘を使わず巧みな仕組みになっていました。1,000年以上前のものといわれ、大阪城天守閣に展示されていましたが、戦時中の爆撃によって破壊されました。船出町の町名は明治33年から昭和55年 1900年から1980年まで使われていました。
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