■第3回 立葉地域
2025 令和7年、浪速区は区制100周年を迎えます。その節目に先立ち、浪速区の歴史を区内11地域の皆さんと座談会で振り返る連載企画です。第3回では、立葉の皆さんに当時の思い出やエピソードなどを伺いました。
参加者 左から 山本昌代さん、幡多区長、森良夫さん、山本悦司さん、北田芳信さん、松岡義博さん
■のどかな戦前とB29が飛来する戦中
区長 北田さんは1934 昭和9年の生まれでいらっしゃいますね。戦前、戦中のことを教えてください。
北田さん 小さい頃は芦原警察署の近くに川があって、めだかやフナ、鯉がたくさんいて、よく遊びに行きました。小学校は難波芦原尋常小学校に通いました。途中で芦原国民学校という名前に変わりました。学校は今の東洋紙業株式会社のある場所にありました。
松岡さん 東洋紙業には今も、小学校だった頃の階段が残っています。
北田さん 戦争で都市部への空襲が始まり、小学4年生の時、和歌山の知り合いのところに疎開しました。和歌山の疎開先では、B29戦闘機が上空を大阪のほうに向かって飛んでいくのがよく見えました。中学2年生の時に大阪に戻ってきましたが、その頃にはまちもだいぶ片付いていました。
区長 浪速区では1947 昭和22年に初めて中学校ができました。浪速第一中学校 現在の難波中学校といい、創立当初は浪速区全域を校区としていました。開校当初はだいこく小学校と今宮中学校 現在の大阪府立今宮高等学校 の2か所を仮校舎にしていたと聞いています。
北田さん 私たちは今宮中学校のほうに通いました。その後、今のUR都市機構桜川市街地住宅 以下UR桜川住宅 のある場所に校舎ができました。それまでは間借りの学校ばかりでしたが、ようやく格好がつきました。
■馬力馬や花電車が走った戦後
区長 森さんは終戦の年、1945 昭和20年の生まれですね。
森さん 小学1年生の頃、近くに焼け残った兵舎があって、管理されずにお化け屋敷のようになっていました。その中にヘルメットや木の銃が残っていたので、それをかぶってよく戦争ごっこをして遊びました。小学校の頃はこの辺りでも雪が降って、積もることがありました。そうしたら、竹を横に半分に切ったものを2つ、断面のほうを上にして並べて、その上にみかん箱を乗せてそりを作るんです。大浪橋のてっぺんのところから、そのそりで滑って降りて遊んでいました。
山本 悦司さん 大浪橋は太鼓橋のような形をしていて、結構、急こう配ですからね。
■深堀り 大浪橋
1937 昭和12年、大きな帆船が頻繁に上り下りするため、橋脚をなくして、川幅を一跨ぎする橋が架けられました。木津川筋で、戦前に架けられた橋としては最下流にあたります。橋梁形式はアーチ橋が採用されており、重厚な景観を造りだしています。また橋の桁下高を確保するために、橋面が高くなり、取り付け道路はかなり長くなっています。大浪橋の名は大正区と浪速区を結ぶ新橋ということで区名の1字ずつをとって付けられました。
区長 他に、今では見られない光景はありましたか。
森さん 昔、西区に貯木場があって、よく馬で材木を運んでいました。馬のひずめが道路のアスファルトに接触してパチパチ火花が出るのをよく見ていました。
区長 昔は馬が荷物を運んでいたんですね。
山本 悦司さん 昔はそれをばりきうまと言いました。サラブレッドの足を太くして、もうちょっと背を低くした感じの馬が荷物を運んでいました。
松岡さん 子どもの頃はよく、大浪橋のところで馬力馬の手伝いをしました。木材を乗せた台車が橋の坂を上がっていく時に、台車を後ろから押して馬を助けてやるんです。そうすると橋の上にアイスクリーム屋がいて、馬力馬のおっちゃんがおごってくれるんです。次に台車が坂を下る時は、坂の上側から台車を引っ張って、勢いがつき過ぎないようにするんです。アイスクリームを目当てに手伝いに行っていました。
区長 昔の資料にも、浪速区には運送業が多く、馬もたくさん飼育されていたとあります。立葉地域には、大きな新なにわ筋が南北に走っていますね。
山本 悦司さん 新なにわ筋の高速道路の真下には昔、家が並んでいました。それが全部立ち退いて、大きな広い道路になりました。小学校へ上がる頃まではそこは土の道で、だだっ広い良い遊び場でした。
区長 新なにわ筋の整備は比較的新しいですが、その東側にあるあみだ池筋は、以前は代表的な幹線道路で、市電が走っていたそうですね。
松岡さん 昔は、花で飾り付けられた花電車があみだ池筋を通っていたことが思い出されます。三宝車庫前 堺市まで行って乗り、桜川で下ろしてもらいました。
山本 悦司さん 花電車は本当にきれいでしたね。私たちは、花電車が通るのを見に行くほうが多かったです。市電がなくなる頃まで走っていたと思います。
<この記事についてアンケートにご協力ください。>