■日本列島が初めて経験した大規模な技術革新の時代
◇「モノ」の移動から「ヒト」の移動へ
古墳時代に入ると(3世紀半ばないし後半)、当時の日本列島にはなかった高度な技術で製作されたさまざまな器物(「モノ」)が中国や朝鮮半島からそれまでにも増して数多くもたらされるようになりました。中期(5世紀)を前後する頃からは、最新の技術や知識を持った渡来人(「ヒト」)の移動がこれに加わります。
豊中市上津島(こうづしま)遺跡や利倉西(とくらにし)遺跡、川西市栄根(さかね)遺跡などで、5世紀半ば以降の朝鮮半島系の土器が見つかっています。この頃までには、猪名川流域でも渡来人が加わった集落が営まれていたようです。近い将来、池田市域でもその痕跡(こんせき)が見つかる可能性が高いと、個人的には思っています。
◇各種生産の専業化と渡来人
生産の形態も弥生時代と大きく変わります。武器や農工具といった鉄製品、須恵器(すえき)や塩、さらに馬といった各種生産が専業化されたことです。これを可能としたのが、最新の技術や知識を持った渡来人です。ヤマト政権やこれを支えた有力勢力は、渡来人を組織化することによって計画的な生産地配置を行い、素材から製品供給までを独占することになりました。
例えば、それまで日本列島になかった大容量の液体を入れる須恵器の大甕(おおがめ)の場合、素材となる粘土、成形に必要な豊かな水、窯(かま)を築くのに適した地形、燃料となる木材、製品の搬出路となる河川という条件を備えた大阪南部の丘陵地帯が生産地として選定されています。ここに、須恵器の生産技術を持った渡来人を配することによって大量生産が可能になりました。
◇製品の規格化と生産地の拡散
このような生産の専業化は、さらなる需要を生むことになりました。これに対応できたのが製品の規格化です。規格の存在は、生産に従事する人びとの間に大きさや量などに関する一種の単位が共有されていたことを示しています。当時の社会がさまざまな製品に求めた機能は、同一の規格を持つ製品として現れ、生産の拡大と生産地の拡散によってその需要を満たしていくことになりました。
5世紀後半以降、大規模な須恵器生産を行っていた桜井谷窯跡群(さくらいだにかまあとぐん)が豊中市北部から箕面市にかけて広がっています。規格の統一と生産地拡散が、大阪北部の丘陵地帯で始まった1つの事例です。また、本市にある五月ヶ丘古墳(五月丘1丁目)は、7世紀に造られた古墳ですが、破格の大きさを持つ、須恵器と同じ手法で作られた焼き物の棺(陶棺)が納められていました。
その被葬者は、渡来人の血を引く、あるいは須恵器生産に関与した人物であった可能性が考えられます。生産の拡散に伴う1つの事象として捉えることができるかもしれません。
古墳時代は、巨大な前方後円墳が造られた時代であり、これも1つの時代像といえますが、社会全体が大きな飛躍を遂げた、まさに日本列島が初めて経験した技術革新の時代という表現の方がその実像に即しているのではないかと考えています。
(市史編纂委員会委員・田中晋作)
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