■歴史民俗資料館特別企画展
開校150周年!池田の小学校(第2回)
歴史民俗資料館では、9月14日(土)から、市内小学校の歴史や教育について紹介する特別企画展を開催します。前回の小学校に引き続き、明治の初めに創設された、残る2つの小学校と、その他明治時代の教科書について紹介します。
◇細河小学校の開校―瓦葺(かわらぶき)の屋根と太鼓楼
明治7(1874)年、豊島郡第一区第一番小学校(現池田小学校)の学区から分離した木部村と、古江・吉田・中川原・東山・伏尾の六村が連合し、第四番(細郷)小学校(旧細河小学校)が中川原村の専行寺(中川原町)内に創設されました。
東山・吉田・伏尾の北部三村の学区が一時期分離して、細郷上(ほそごうかみ)小学校が創設されるなど、いくつかの変遷を経て、明治24(1891)年に再び六村は同じ校区となりました。その時に建った細河尋常小学校の新校舎が左の写真(※本紙参照)です。立派な瓦葺の屋根で、上部には、時刻を知らせる太鼓楼があります。現在の小学校とは大きく異なる様相をしています。
◇秦野小学校の開校―擬洋風(ぎようふう)校舎
明治8(1875)年に、東・西畑村が第一区第一番小学校の校区から分離して、第一区第八番小学校(現秦野小学校)が創設されました。西畑村の奥村市郎兵衛控家(ひかえや)を仮設校舎としました。しかし、児童数が増えて手狭になったため、東・西畑村の中央に位置する奥村奥治郎所有地(畑4丁目)に、校舎を新築したい旨が大阪府権(ごん)知事渡辺昇(のぼり)に提出されました。建築の許可を得た後、費用の計上や建物の設計が行われており、その際に作成したと思われる絵図が残されています。
白と青が映える壁にガラス窓や飾り付きアーチ型の両開き扉など、洋風の装飾が施されています。このような建物は、「擬洋風」建築と呼ばれており、明治初めから中期に建てられた小学校によく見られました。実際にこの絵図のような建物が畑村に作られたか分かりませんが、近代的な小学校建築は、当時の地域住民へ教育に目を向けさせるきっかけになったのかもしれません。
◇明治時代の教科書
教育制度が整えられていくにつれて、教科書や教材も次々に作成されるようになります。明治初期の小学校では、江戸時代に寺子屋で使われた漢籍や欧米の教科書を翻訳されたものが使用されていました。
明治14(1881)年から、教科書採用に関する制度が整備されていきましたが、同35年に教科書制作業者と採用担当者間で贈収賄事件(教科書疑獄事件)が起こったのを契機に、「国定教科書制度」が採られました。同27~28年の日清戦争後の日本では、国家主義思想が興隆しており、特に修身の教科書は、それを踏まえた内容で政府が編纂(さん)すべきである、という意見が唱えられていました。
実際に使われた修身の教科書の内容は、日清戦争以前のものは、孝行や悌道(ていどう)といった儒教の教えがベースとなっていましたが、国定教科書制度下では、愛国心を説く逸話が書かれるようになります。国定教科書制度は終戦まで続き、当時の思想の変化を反映した内容で教科書が編纂されていきました。
次回は、戦時下の小学校について紹介します。本紙18ページのミュージアムコーナーに展示案内と期間中のイベントを掲載しています。併せてご覧ください。
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