【唐櫃山古墳の発掘調査~墳丘の調査と復元~】
前回は唐櫃山古墳の渡り土手の調査でしたが、今回は墳丘本体の調査成果についてと、唐櫃山古墳の復元がどのように変わったのかをお話したいと思います。調査の目的はくびれ部と呼ばれる前方部と後円部が接続する場所の状況を確認するために調査を実施しました。
7月の後半に開始し、35度を超える猛暑のなかの調査となりました。すべて自分たちの手で掘って、土を運んで調査を進めていきます。専門の作業員もいますが、当然私も土を掘ったり運んだりしました(残念ながら痩せません)。
今回の調査では、後円部上段の葺石、後円部テラスの埴輪列、後円部テラスの埴輪列に接続する埴輪列の3つが確認できました。以前の調査では後円部テラスの埴輪列は確認されていましたが、葺石と埴輪列を同時に発見することは初めてです。
後円部上段の葺石は、石を葺く際の目印となる石列(せきれつ)や横目地(よこめじ)を確認することができました。唐櫃山古墳が築造された5世紀後半の古墳では、葺石の葺き方(工程)が簡略化される場合も多々見られますが、唐櫃山古墳の葺石は石材も比較的大きく、丁寧に葺かれていたことがわかりました。
後円部の埴輪列は調査区を横断するように12個が見つかり、前方部の埴輪列は5個確認できました。今までは前方部の埴輪列は確認されていなかったため、この発見は大きな成果となりました。前方部の埴輪列の存在から、今まで考えられていた前方部の幅が広がることが明らかになりました。つまり、前方部の一部は後世に削られてしまっていたということです。これについては、1955年に実施された測量調査によって、﹁墳丘は比較的完好な形状を保ち、前方部の西南角だけが若干削られていた﹂という所見があります(※)。
このように新たな成果としては、唐櫃山古墳には前方部にも埴輪列を伴い、前方部の幅は14~15m程度になることがわかりました。令和2年の調査以前と以後では、唐櫃山古墳の築造当時の姿を復元した図は大きく異なることになりました。発掘調査を毎年進めるとともに復元図が変わり、市野山(允恭天皇陵)古墳と唐櫃山古墳という主墳と陪冢の関係性をも深める例が見つかり、毎年心が躍る成果を得ることができたことは、これ以上ない悦びでした。発掘調査をしなければわからない情報が多くあることを認識する結果で、今後も藤井寺市の文化財に対する価値をさらに深めていきたいと思います。
(文化財保護課 泉 眞奈)
(※)北野耕平 2002「唐櫃山古墳とその墓制をめぐる諸問題」『藤澤一夫先生卒寿記念論文集』同刊行会
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