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続・ひみ未来遺産「第19回 村嶋 酉一(とりいち)」

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富山県氷見市

◆〜自然を愛し、禅に傾倒した氷見ゆかりの日本画家〜
氷見の風物を多数描き残した日本画家・村嶋酉一(1897〜1983)は、本名を酉一郎(ゆういちろう)といいます。東京美術学校(現東京芸術大学)日本画科に入学し、酉一(とりいち)、酉一(ゆういち)、鵬翁(ほうおう)などと名乗って、在学中から文展や帝展といった官製美術展(官展)に作品を度々出品しました。昭和7年(1932)には帝展で、鶏を題材とした「日午(にちご)」で特選を受賞するなど評価されました。しかし、昭和24年(1949)を最後に官展への出品をやめ、地方で作品制作を行うようになります。
酉一は、富山市の生まれながら氷見と関係が深く、氷見出身で東京美術学校の先輩であった加藤雨月(かとううげつ)や、禅の教えを受けた氷見郡太田村(現高岡市太田)にある国泰寺の管長江南軒大喜(こうなんけんだいき)師、そして、氷見出身で陶芸や書画などの美術作品を多く残し、禅への造詣が深かった加納白鷗(かのうはくおう)らと親しく交流しました。
また、氷見の風物を好み、国泰寺や慈光寺(大境)、光西寺(長坂)など、各地に滞在して作品を残したほか、灘浦の知人宅を訪れたときには、茶室に「吟雪庵(ぎんせつあん)」と命名しています。
「冠雞(かんけい)」と題する掛け軸(左の画像)が昨年、博物館に寄贈されました。昭和初期ごろの作品と推定されます。酉一は、太平洋戦争の頃から禅へ一層の傾倒をするようになった影響か、自然風景や植物、魚、仏を題材にするようになります。官展に出品していたころの作品は、戦災と社会の混乱の中で所在不明となったり、失われたりしているため、この「冠雞」は若き日の酉一の作風を知る上で貴重な作品といえます。
(博物館主任学芸員 小境遼太)

問合せ:博物館
【電話】74-8231

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