■三名橋・三奇橋
錦帯橋は現在、日本の三名橋・三奇橋の1つに数えられています。三名橋は、錦帯橋以外に日本橋(東京都)・眼鏡橋(長崎県)・二重(にじゅう)橋(東京都)などが挙げられ、三奇橋は、錦帯橋以外に猿橋(さるはし)(山梨県)・木曽の桟(かけはし)(長野県)・愛本(あいもと)橋(富山県)、日光の神橋(しんきょう)(栃木県)・祖谷(いや)のかずら橋(徳島県)などが挙げられます。錦帯橋は基本的に含まれていますが、その組み合わせには諸説があるようです。またこれらをいつ・誰が言い始めたのかは、はっきりしていません。今回は三名橋・三奇橋の成り立ちについて考えていきます。
まず、三奇橋のルーツと考えることができるものとして、猿橋のたもとにある石碑『猿橋記』があります。これは宝暦5(1755)年に刻まれたもので、「我大日本橋梁之奇巧者(わがだいにっぽんきょうりょうのきこうなるは)、周防之算橋(すおうのさんばし)、岐岨之懸橋(きそのかけはし)、峡之猿橋是已(かいのさるはしこれのみ)(日本の橋の中で珍しくて巧みなものは、周防の錦帯橋、木曽の桟、甲斐の猿橋のみである)」と記されています。また元禄11(1698)年に横山の洞泉寺(とうせんじ)の住職・一元(いちげん)が記し、後に同じく僧の轍外(てつがい)が注釈を加えた『根笠行紀(ねがさこうき)』では、錦帯橋は飛橋(ひきょう)と呼ばれ、国内の他の飛橋として、甲斐の猿橋、越中(えっちゅう)の堺川(さかいがわ)橋(愛本橋と考えられる)が挙げられています。江戸時代中期には錦帯橋を含めたいくつかの橋が、珍しい構造の橋として広く知られるようになっていたことがわかります。
その後、明治42(1909)年に初版が発行された『岩国案内記』には、「Kin-Tai-Kyo(or Soroban-Bashi)is one of the three queerest bridges in Japan.(錦帯橋は日本の三奇橋の1つです)」と記されています。また山口県出身の評論家・横山健堂(よこやまけんどう)は、昭和11(1936)年の『錦帯橋国風景記』の中で、「錦帯橋は古来、日本三奇橋の随一とされている名橋」、「三奇橋は元来三名橋」と記しています。
これらのことから、江戸時代から有名だった橋が、明治時代以降に三名橋・三奇橋という呼び名でまとめられていったのではないかと考えられます。
・12月17日まで、岩国徴古館で『創建350年記念展示 錦帯橋展 後期「美をうつす」』を開催中です
▽岩国徴古館(いわくにちょうこかん)
昭和20年に旧岩国藩主吉川家によって建てられ、その後岩国市に移管された市立の博物館
住所:横山二丁目7-19
【電話】41-0452
休館日:月曜(祝日の場合はその翌日)
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