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ふるさと歴史アラカルト

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山口県岩国市

■肖像画が伝えるもの

今回は、戦国時代後期から江戸時代初期にかけての武将・二宮俊実(にのみやとしざね)とその肖像画について紹介します。
二宮家は、鎌倉時代に駿河国(するがのくに)(現在の静岡県中部)から安芸国(あきのくに)(現在の広島県西部)へ吉川(きっかわ)家の拠点を移した五代吉川家当主・吉川経高(つねたか)の娘婿・二宮維清(これきよ)にはじまります。吉川家歴代に仕え、慶長5(1600)年の関ケ原の戦いの後、吉川家が岩国へ移る際にも従いました。
二宮俊実(佐渡守(さどのかみ))は、吉川元春(もとはる)に仕えて15歳で初陣し、以降も元春に従って各地を転戦しました。天文22(1553)年の高杉城(現在の広島県三次市)攻めでは、城主の祝甲斐守(ほうりかいのかみ)を槍で討ち取ったとされています。弘治元(1555)年に毛利元就(もうりもとなり)と陶晴賢(すえはるかた)が戦った厳島の戦いでは、陶側の武将・三浦越中守(えっちゅうのかみ)を槍で突き、毛利軍の勝利に貢献したことが伝えられています。また俊実は、武芸だけでなく文章にも優れ、各地を転戦した際の記録を「二宮佐渡覚書」として、後にまとめました。この覚書は、現在でも戦国時代の毛利家の研究において、重要な資料とされています。岩国へ移った後の慶長8年、81歳で死去しました。菩提寺である藤生(ふじゅう)の松巌院(しょうがんいん)には、俊実の墓が残されています。
肖像画(写真)に描かれている俊実は、遠くを眺めるようなポーズをし、甲冑を着て手には槍を持ち、戦場にいるようにも見えます。槍を持っているのは、戦場での俊実の逸話から、槍がイメージしやすかったためと思われます。また兜の前立(まえだて)(兜の前に取り付けられる装飾)の円形の中には「二宮」と入っています。肖像画の上部には「只(ただ)人ハ口と心ハかわりけり、丸きものにハ角のふたして(人は言葉にすることと心中は異なる)」という歌も添えられています。右には「寿像(じゅぞう)」と記されており、俊実の生前に描かれたこともわかります。
写真のない時代には、こうした肖像画によって、人物の姿や功績を後世に伝えていきました。

・3月3日(日)まで企画展「描かれた偉人たち」を開催しています。

▽岩国徴古館(いわくにちょうこかん)
昭和20年に旧岩国藩主吉川家によって建てられ、その後岩国市に移管された市立の博物館
住所:横山二丁目7-19
【電話】41-0452
休館日:月曜(祝日の場合はその翌日)

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