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第5回 二代藩主正誠(まさのぶ)の時代II(新庄藩の全盛期)
江戸幕府の成立後、家の安泰を図るため、江戸幕府徳川家の忠臣らとの結び付きを強めた羽州新庄藩戸沢家。11代続いた藩政の礎は、その後どのように築かれたのでしょうか。今回は、新庄藩確立期に起こったお家騒動「片岡騒動」を制した二代藩主正誠が、どのように専制政治を確立していったのかを学びます。
■城郭の拡張と町の整備
片岡騒動を制した正誠は、藩政確立のための政策を次々と打ち出すとともに、城郭の拡張に努めました。
城壁は、従来の粗末な門の周囲に石垣を積み、堅固な升形囲いを構築。さらに、城壁の上に壮大な二層の櫓(やぐら)門を築きました。次に、二の丸を東側に大きく拡張して、藩の役所や年貢を納める16棟の倉庫を設置。新たに三の丸を設け、上級・中級の家臣団を配置する侍町にしました。この侍町が、現在の神明町・石川町・水上町などです。
三の丸の拡張に伴い、町人町は、大きく東側に移されました。また、馬場を造築したため、従来この地点を通っていた羽州街道を大きく東側に移し、街道沿いに町人町を設けました。現在の落合町・清水川町・馬喰町・南本町・北本町・横町・万場町・鍛冶町などがこれに当たります。
■延宝の総検地と豪勢な文治政治
藩財政の基礎は農民から徴収する年貢です。そのため、田畑の正確な検地は、藩政にとって重要でした。新庄藩で初めて検地の統一的な基準が定められたのが、正誠の時代です。検地に用いる尺の長さを定め、正確に測量した上で、収穫高ごとに田畑に等級を付けました。
さらに、年貢の徴収方法も実際に収穫した量を基にした「束刈(そくかり)法」から、一反当たりの生産力を基にした「石盛法」に改めました。これにより、年貢が著しく高率で賦課されるようになり、藩財政は潤いました。
正誠の治世の下、新庄藩は財政が充実し、全盛時代を迎えることになります。正誠は多数の学者・書家・役者などを新規に召し抱え、鳥越八幡宮拝殿や桂嶽寺を造営するなど、放漫で豪勢な文治政治を展開しました。しかし、1700年頃を境に、年貢収納高が減少し始め、藩財政が急速に困窮していったのです。
―次回に続く
出典:シリーズ藩物語「新庄藩」大友義助著
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