■正家廃寺跡「国家プロジェクトで造営?」
三宅唯美さん(文化課)
正家廃寺跡は、8世紀前半に、東濃5市のエリアで最初に建立された古代寺院です。それまで寺院の空白地域であったこの地域で、正家廃寺はなぜ建てられたのでしょうか。
その手掛かりとなるのが、『続日本紀』にある美濃守笠朝臣麻呂(みののかみかさのあそんまろ)が行った事業です。706年に美濃守に選任されてから14年の間に精力的に国内の整備を進めました。中でも不破関や神坂峠越えの東山道の整備などが特筆されます。
奈良時代の律令国家は、まだ支配が及んでいなかった東北地方の経営を本格化させていました。東山道の難所であり、東国への入口でもある神坂峠を控える恵奈郡の整備には、特に力を入れたと推定されます。
ところで、この地域は西暦677年には土岐郡の一部で、恵奈郡はこの後の70年余りの間に、新たな郡として立てられたことが知られています。これも国家プロジェクトを推進していくためでしょう。
正家廃寺の造営もこれと時期が同じであり、恵奈郡の内実を整えていく一環として進められたのでしょう。単なる郡の寺ではなく、東山道神坂峠の麓の寺院として、大井・坂本両駅とともに、国家にとって重要な役割を果たすことが期待された可能性があります。
遺物からもそのことがうかがわれます。
正家廃寺跡では、奈良三彩のつぼが出土しています。金堂・講堂から出土しており、堂内の装飾物として納められたのでしょう。奈良三彩は、平城京近くの小規模な国家直営工房で注文生産された焼き物です。地方では中央とつながりのあるごく限られた遺跡からしか出土していません。正家廃寺の場合も同様の結び付きが推定できるのです
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