▽きん忍者
岡山城で輝くしゃちほこと同じ金色の忍者。岡山城とお殿様を守る
▽くろ忍者
岡山城壁と同じ黒色の忍者。きん忍者と一緒に任務を遂行する
「岡山城と城下町を築き、今の岡山のまちの土台を作ったのは宇喜多直家公・秀家公なんじゃ。でもどんな人物か、あまり知られておらんの~。」
「関ヶ原の戦いで敗れたのち、宇喜多家の資料も失われて、直家公や秀家公のことは、よぉ分からんかったが、語られていない物語がたくさんあるんじゃ。」
「そーなんじゃ!それぞれの奥方や家族との絆もとても強かったらしいの~。」
「そうじゃそうじゃ。今回はあまり知られていない宇喜多家の人たちと岡山城について、改めて調べてみょーや~!」
▽宇喜多家 家系図※
詳細は本紙P.2をご覧ください。
■一代で50万石の大名に 宇喜多直家 岡山の礎を築いた智勇兼備の英傑
うきたなおいえ
[1529-1582]
※1581年説もあり
裸一貫のスタートながら、常識にとらわれない戦略で勢力を広げ、一代で備前・美作一帯を領有。
また、岡山平野に目をつけ、山陽道を付け替えて城下町の基盤をつくるなど、先見性にも優れていた。
「謀略、裏切り、冷酷な梟雄(きょうゆう)=悪人というイメージがあるものじゃが、本当はどうじゃったんじゃ?」
「謀略は戦国時代では世の常。しかも直家公は、上からの命令でやったことや不確かなことも多いんじゃ。さらに、江戸時代以降の人が、当時の価値観や創作も交えて直家公を評し、悪い印象をつけてしもうた。本当は、超大国の織田や毛利と渡り合い、家臣や領土を守った名将じゃ!」
■岡山城の天守を築いた 宇喜多秀家 忠義に生き、波乱の人生を歩んだ五大老
うきたひでいえ
[1572-1655]
家督を継いだ秀家は、豊臣秀吉の養女・豪姫と結婚し、数々の戦いで秀吉の天下取りを支えた。今に残る岡山城を築き、若くして五大老に就任。関ヶ原の戦いに西軍の大将格として出陣するも敗れた。
「最愛の娘・豪姫を託されるほど秀吉公に見込まれた秀家公は、国内外の戦で活躍。義に厚く、豊臣方として関ヶ原で奮戦した唯一の五大老じゃ。なお、五大老の大名家として大河ドラマになっていないのも宇喜多家だけなんじゃ。」
「関ヶ原で敗れた秀家公は、八丈島(東京都)に流されたんじゃ。島には秀家公と豪姫が仲睦まじく並ぶ座像があり、その視線の先は岡山だといわれておるんじゃ。」
■円融院(※) 幼い秀家と宇喜多家を守った強き母
※「おふく」との説もある
えんゆういん
[1549-没年不詳]
直家の妻。直家逝去後、息子の秀家と家臣をまとめ、周辺の武将にもにらみを利かせるなど女城主に近い時期があった。
「重臣たちの家中の争いを仲裁したこともあったそうじゃ。秀吉公にも一目置かれ、影響力も大きかったんじゃ。」
■豪姫 明治維新まで続いた夫と子孫への思い
ごうひめ
[1574-1634]
秀家の妻。夫を案じて始まった八丈島への仕送りは、二人の死後も実家の前田家から子孫へと続けられた。
「利発な豪姫は秀吉公とその正室のねねに溺愛され、秀吉公から「男だったら関白にした」とも言われたそうじゃ。」
■宇喜多家の歴史
・享禄2年[1529]
宇宇喜多直家、砥石城(現在の瀬戸内市)に生まれたとされる
・天文12年[1543]頃
直家、一説に流浪の少年時代を過ごしたのち、浦上宗景に仕える。
・天正元年[1573]頃
直家、岡山へ居城を移し城を拡張。ここに城下町・岡山が始まる。
・天正10年[1582](※)
直家死去。わずか10歳の秀家が遺領を継ぐ。
※1581年説もあり
・天正15年[1587]頃
秀家、豊臣秀吉最愛の養女・豪姫と結婚。秀吉の天下取りを支える。
・慶長2年[1597]頃
秀家、岡山城天守を完成。その後、豊臣政権下で五大老に選ばれる。
・慶長5年[1600]
秀家、関ヶ原の戦いで西軍の大将格として出陣し敗戦。八丈島へ流刑となり、明暦元年(1655)年に死去。
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