■今月のテーマ 志戸坂峠ってどうなっとん?
▽はじめに
令和6年6月24日、国の史跡として、「智頭往来志戸坂峠(ちづおうらいしとさかとうげ)」が、村内ではじめて選ばれました(正式な決定は秋ごろになります)。国の史跡は岡山県内では48番目となりますが、岡山市の造山古墳、倉敷の楯築古墳などと並んで、国の中で価値が高いと認められた貴重なものです。
今回の特集では、この志戸坂峠を取り上げます。志戸坂峠には、村内の歴史がわかるスポットが点在しいて、村内の歴史が凝縮されています。本紙左記に志戸坂峠の地図を作成しました。この広報誌を見ながら、志戸坂峠を歩いてみませんか。
もっと歴史を詳しく知りたい方は、図書館の方に資料などがございますのでご覧ください。
▽志戸坂峠ってなに?
志戸坂峠は、鳥取県と岡山県を結ぶ智頭往来(因幡街道)の道筋にあり、江戸時代には参勤交代に利用されるなど昔の人びとにとって重要な道でした。
志戸坂峠の歴史は古く、8世紀に書かれた『播磨国風土記』には山陰地方の人々が中国山地山越えルートとして使われたと記述がありました。
近世に入ると、池田光仲(池田光政の従兄弟)を初代とする、鳥取藩池田家が参勤交代の道として発展させました。240年間で138回、幕末期には1172名の行列で峠を超えました。このように、志戸坂峠は、京都や東京などを目指す重要な道であったことがわかります。なお智頭町にある「駒帰の泣き地蔵」は、故郷から離れる悲しみを表現した地蔵だと言われています。
近代では、明治18年に、国道22号に指定されました。今、私たちが見ることのできる姿はその際に整備されたものであることが明らかとなりましたが、明治政府が国家戦略として打ち出した国道整備が中国山地においても早期に完徹されていたことを示す貴重なものだとわかってきました。その後は、自動車の普及により交通量が増加し、昭和9年には、「旧志戸坂トンネル」が完成し、志戸坂峠は大きく変貌を遂げました。
現在、志戸坂峠は鳥取自動車道の完成により交通の要所としての役目は終わりましたが、そのことによって江戸~明治時代の姿が保存されることになり村内の歴史を後世に伝える場所として残り続けることとなりました。
▽志戸坂マップ
一覧については本紙をご参照ください
※現在、智頭側は崩落のため通行止めとなっております。
▽「開鑿碑(かいさくひ)」について
この石碑は、明治20年6月に開削工事が成功したことを記念にして建てられた石碑です。明治18年1月に智頭往来志戸坂峠が国道22号に指定されたのち、これを受けて岡山県が峠の開削工事に取り組むことになりました。石碑にはこのように書かれています。明治18年11月に志戸坂峠の水害や雪による事故などを憂いた当時の岡山県知事が工事を命令して行われました。当時厳冬期には、大雪により雪崩が起き、他の村々からは、捜索や人命救助のため、多くの人員が派遣されました。しかし、この工事によって、水害や大雪が降っても道をふさぐことはなくなり、道が改善したようです。
・開鑿碑は、志戸坂峠の岡山と鳥取の県境の近くにあります。この石碑は、昔の志戸坂峠の気候や当時の工事の様子などがわかる貴重な資料です。
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