安来市立歴史資料館の展示品を通して安来市の歴史を紹介する、このシリーズ。第10回は、松江藩成立のお話です。
1600(慶長(けいちょう)5)年9月15日の関ヶ原の戦いが終わると、戦後処理が行われました。いわゆる論功行賞(ろんこうこうしょう)で、東軍すなわち徳川家康に味方した大名には加増(かぞう)(領地の増加)が、西軍の大名には追放や改易(かいえき)(取りつぶし)、減封(げんぽう)(領地の削減)等が行われました。
月山富田城の城主であった吉川広家(きっかわひろいえ)は、西軍であったため岩国へ移されました。代わってやって来たのが、東軍方であった遠州浜松城主堀尾忠氏(ほりおただうじ)でした。浜松12万石から出雲・隠岐24万石への加増でした。父吉晴(よしはる)と共にやって来た忠氏は、城の移転を考えます。
尼子氏の活躍した戦国時代は、月山富田城のほかに多くの支城を抱え、家臣はそこに住んでいました。そして、いざ戦という時は、月山富田城に集結しました。
豊臣政権ができると、刀狩りや検地が行われ兵農分離が進んでいきます。そうすると、多くの家臣とその家族等を城下に住まわせる必要が生じてきました。そのため、城と家臣の居住区が一体となった町を造り、そこに商人や職人などが住むという新たな城下町が出来上がっていきました。
忠氏は、新しい城下町を造るには富田では狭いと考え、新たな土地を求めました。ところが、吉晴と城地を選定中、忠氏は亡くなってしまいました。吉晴は、孫が幼少のため忠氏の遺志を継ぎ、自らが先頭に立ってお城を築きました。それが松江城です。
堀尾氏、京極氏、松平氏と城主は代わっていきますが、松江藩として明治まで続きました。
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