■最終回 七尾城跡(ななおじょうあと)
七尾城は、中世の約400年間にわたり益田を治めた領主益田氏の居城です。
標高118mの七尾山は、北の益田川に向かって2つの尾根が伸び、その結節点から南に伸びる尾根とあわせてYの字のような形状をしています。尾根上に30余りの曲輪(くるわ)が設けられ、本丸はY字の結節点にあります。現在は西側の住吉神社の参道から登りますが、本来の大手(正面)は益田川に面した北側と考えられています。
大手から登る場合、2つの尾根の間を登ると傾斜が緩くて楽ですが、正面と側面にあたる2つの尾根の曲輪からの攻撃にさらされます。2つの尾根を先に攻略しようとすると、急斜面を駆け上がる必要があります。
本丸南側の曲輪の東側や北東方向の出丸(通称:艮(うしとら)の出丸)のあたりが城の弱点と考えられたのか、畝状(うねじょう)竪堀群(たてぼりぐん)が設けられています。特に、本丸南側の曲輪の東側に設けられた16の連続する竪堀は圧巻です。
七尾城がいつ頃築かれたかは諸説ありますが、延元(えんげん)元(1336)年に南朝方に攻撃されたと古文書に見える「益田城」がその初見と考えられます。
また、この古文書に「北尾崎木戸(きたおざきのきど)」が打ち破られたと書かれていることから、この頃の七尾城は、現在は尾崎丸と呼ばれている北西方向に伸びる尾根の先端のあたりだけであったと考えられています。その頃の益田のまちは、益田川の北側の染羽地域が栄えていたと考えられており、七尾城は染羽地域を見渡せる形になっていました。
その後、七尾城は次第に城域を拡大したと考えられ、戦国時代の終わり頃には山全体を要塞化するに至りました。
戦国時代の益田藤兼(ふじかね)の晩年の様子を伝える古文書からは、子の元祥(もとよし)に家督を譲った藤兼が一時期、七尾城に居住していたであろうこと、11人の一族・重臣が七尾城に駐在していたことがわかり、100人以上が七尾城に居住していたと推測されます。
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