[第45回]府中が農村であった頃(6)~鹿籠新開(1)
前回の大須新開(おおすしんがい)に続いて今回は鹿籠新開(こごもりしんがい)を紹介します。鹿籠新開が大須新開と一番違うのは築造した主体です。大須新開は藩営新田(はんえいしんでん)で、藩が中心になって築造しましたが、鹿籠新開は、町人が費用を負担し築造しました。これを町人請負新田(ちょうにんうけおいしんでん)と言います。
鹿籠新開を開いたのは広島城下新町組橋本町(しんまちぐみはしもとちょう)(現・広島市中区)で町の大年寄役(おおとしよりやく)を担っていた伊予屋助三郎(いよやすけさぶろう)です。伊予屋の先祖は武士で姓を兵頭(ひょうどう)といい、三河国(みかわのこく)(現・愛知県)から伊予国喜多郡出海浦(きたぐんいずみうら)(現・愛媛県大洲市(おおずし))に移り住みました。天正(てんしょう)19(1591)年に、助右衛門正信(すけうえもんまさのぶ)が毛利輝元(もうりてるもと)に仕え安芸国に移ります。関ケ原の合戦後に毛利氏が防長(ぼうちょう)に転封(てんぷう)になると武士をやめ、安芸郡温品村(ぬくしなむら)(現・広島市東区)に住みました。2代目吉左衛門が広島城下に移り酒造業や穀物商(こくもつあきない)を始めます。元和5(1619)年に浅野長晟(あさのながあきら)が広島に入国し、城下巡覧(じょうかじゅんらん)をした時に、伊予屋の屋敷が目に留まり御目見えを許されるようになったとのことです。当時では珍しい3階建ての蔵があり三階屋(さんかいや)とも呼ばれていました。江戸時代の史料である『知新集(ちしんしゅう)三』には三代目助三郎が、貞享(じょうきょう)2(1685)年に府中村の鹿籠の海浜を自力で干拓したいと願い出て許され、翌年堤を築いて潮留(しおどめ)をして干拓をしたと記されています。正徳3(1713)年には鍬下年季(くわしたねんき)が終わり検地を行い、年貢を納めるようになりました。かつて近くの伊予屋の別宅があった場所に「正面・出海翁正哉(いずみおうまさなり)、右側面・氏兵頭姓藤原(うじひょうどうせいふじわら)、裏面・貞享三丙寅年(じょうきょうさんひのえとらのとし)、左側面・閏三月新開之(うるうさんがつあらたにこれをひらく)」と彫られた石碑がありました。出海出身の老人が貞享3年に新開を開いた記念の石碑なのでしょう。石碑は、現在道路の改修で場所が移りました。
府中町文化財保護審議会委員
菅 信博
<この記事についてアンケートにご協力ください。>