第41回 府中が農村であった頃(2)
今回は江戸時代の村の様子を数字で見てみましょう。この表は広島藩が文政8(1825)年に刊行した地誌『芸藩通志(げいはんつうし)』から近辺の村を抜粋したものです。
水はけや日照など土地の状況からこの土地からはこれくらいの米ができるだろうと出された数字が石高(こくだか)で、村の合計が村高(むらだか)です。これが年貢(ねんぐ)(税)の基準になりました。実際の生産量とは違いますが、概略比較ができます。単位は1町(ちょう)は10段(たん)(反)で、1段は10畝(せ)です。1段は991・736平方メートルです。1辺が30mの四角形の土地は30m×30m=900平方メートルです。イメージできますか。1石(こく)は10斗(と)、1斗は10升(しょう)です。酒や醤油の1升瓶は1・8ℓです。石斗升は容積なので、単純に重さには換算できませんが、米1石は約150kgです。まず府中村の耕地面積が圧倒的に広いことが分かります。この頃には大須新開(おおすしんがい)も完成し耕地が広くなっています。村高も他村を圧倒しています。安芸郡全体の中では耕地1段あたりの収穫高が平均より高く、牛馬の数、特に馬が多いのも特徴です。奥海田村(おくがいた)や温品(ぬくしな)村など1段あたりの生産高が高い村は牛馬の数も多いので、牛馬の使用が堆肥(たいひ)の供給にもなり生産性を高めていたのでしょう。人数一人当たりの石高を見ると、一番多いのは温品村の9斗6升で、次が府中村の7斗5升です。海田村は4斗8升で、船越村にいたっては2斗8升にすぎません。こういった村は米作以外の手段があったのでしょう。府中村は人口も多く、面積も広く、段あたりの収穫高も多い、開けた農村だったのです。
※段当高は土地1段当たりの高
人当高は農民1人当たりの高
府中町文化財保護審議会委員 菅 信博
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