わずか76年後には、日本の人口が今の半数に減少すると見込まれるなか、“ふるさと熊野”を子や孫に残すために、私たちには今できることがあります。
個性豊かな文化を活かした魅力的なまちづくりも、移住する場所、住み続ける場所として人々をまちに惹き付ける大切な取り組みの一つのはずです。
熊野町は筆産業とそれにより培われた文化芸術が息づくまちです。このソフトパワーを活かし、この地に住む人々がつながり、まちと文化を未来につなげるため、都市公園と観光交流拠点施設の建設を進めています。
今月号では、平成の時代の初め頃の官民それぞれによる観光開発や自然公園構想の議論や経緯、成果などを紹介します。
■「筆の里くまの会議」の結成と活動
町の資源を活かして「いい町つくろう」を合言葉に、町商工会青年部のメンバーのほか、町職員や一般の若者も加わり「筆の里くまの会議」が立ち上がりました。今から35年前、平成元年のことです。
定例の会議のほか、4つの部会活動では昼夜を問わず活発な議論が交わされ、まちの自然、歴史、文化財といった身近な地域資源を活かした自然公園の整備、市街地への特徴的な街灯や町の玄関口へのモニュメントの設置などさまざまなアイデアが発案されました。
2年間にわたる検討の成果は、『筆の里くまの観光基本構想報告書』としてまとめられました。報告書には、町の観光のシンボルゾーンとなる公園の中に書道美術館や工芸伝承館などを整備するといった精力的な提案が打ち出されています。
こうした活動による気運の高まりは、やがて筆の里工房の設置へと結実し、今につながっています。
■「自然公園計画」から「筆の里工房」整備へ
平成元年度以降、町では町民へのアイデア募集や庁内での政策研究を進め、面積規模が4ヘクタールの「筆の里自然公園計画」を立案しました。
平成3年には各種団体や学識経験者による「熊野町まちづくり委員会」が編成され、計画の具体化を図る体制が整えられました。
そうしたなか、用地交渉において一部の土地の確保が見通せなくなったことから、平成4年に入り、面積規模を1ヘクタールに縮小した「筆の里工房建設事業」へと計画変更し、現在の「筆の里工房」の設置に至っています。
これから整備する公園は、構想初期に立案された「筆の里自然公園計画」に匹敵する4.3ヘクタールの用地をすでに確保しています。
■引き継がれてきた町の計画
町は法令などに基づいて策定した各種行政計画に沿って行政運営をしています。その最上位に位置し、おおむね10年周期で改訂する「総合計画」には、平成13年以降一貫して筆の里工房周辺の拡充整備を掲げ、取り組みを段階的に進めてきました。
平成29年には「熊野町観光交流拠点整備構想」をとりまとめ、観光戦略やその拠点施設整備の方向性を整理しています。
町の都市的将来像や実現方針などを示す「熊野町都市計画マスタープラン」においても、筆の里工房およびその周辺地区において、人・文化・縁がふれあう個性的で魅力のある交流・観光拠点づくりを推進すると明示しています。
これら各種計画は、町議会の議決や事業説明を経て策定や改訂が行われるもので、今後も議会と適切に連携するとともに、町民のみなさんにも町広報や町ホームページなどを通じて積極的に情報をお伝えしながら事業を推進してまいります。
■当時の会員からのメッセージ
梶山孝之さん
地域経済の不安定化や町の活力低下への商工会青年部の危機意識が会議発足の契機でした。20代後半から30代後半が中心の若い集団で、時には50人近くが集まり、熱い議論が深夜に及ぶこともありました。1年目は町の資源を整理し、2年目はまちづくりに対する会議としての意思を示しました。ふり返ると当時は全国的に地方創生のブームにわき、会員たちには、その波に乗ろうとする気運や熱気がありました。
真の観光は“もてなしの心”が大切です。これからつくる施設は、例えば訪問客の応接に町民が気軽に使えることができるような、自由で身近なもてなしの場であったらいいですよね。創作体験などのサービスではものづくりの原点である創作者の主体性への配慮、施設管理面では制約を極力設けず、利用者の自己責任を促していくといった姿勢がほしいものです。
新たな施設の良さが口コミで広がるよう、試行錯誤を楽しみながら、魅力的な施設づくりをしてください。期待しています。
8月号では、令和4年度に行った設計者選定の概要を中心にお届けします。
問合せ:
〔公園について〕都市整備課【電話】820-5608
〔施設について〕産業観光課【電話】820-5602
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