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碧南の歴史へのいざない

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愛知県碧南市

■No.106水辺の記憶(5)~大浜塩の産地~
古来、日本では海辺のいたるところで塩が作られていました。
かつての北浦に面した西端には製塩地の跡があったそうです。また、東浦に面した天神町の照光堂坂下遺跡からは製塩土器が出土しました。令和二年に発掘された市内東浦町内の南霞浦(みなみかほ)遺跡には、古墳時代から平安時代前期にかけて製塩が営まれた歴史がありました。
大浜村と棚尾村の製塩は、文禄年間(一五九二〜一五九六)に大浜の竜宮から一浜まで水路を造って海水を引き入れ、製塩業を始めたのが起こりです。
ところが、寛永元年(一六二四)の洪水で矢作川の泥水が棚尾・大浜を通り抜けて衣ヶ浦まで達し、塩田が埋没してしまいます。そこで、大浜村名主の石川八郎右衛門は領主の許可を得、三島久五郎と協力して堀川を改修し、四年後に塩田を整備しました。
寛文元年(一六六一)には大浜村と棚尾村の入会(いりあい)で製塩し、両村から鐚(びた)一四七貫文を上納した記録があります(税のようなもの)。
天明八年(一七八八)には「大浜塩」の通称があり、明治六年(一八七三)には一八町二反五畝余り(一八ヘクタール以上)の塩田が広がっていました。
大浜塩の製塩は農家の副業でした。矢作川の舟運(しゅううん)を使って足助(あすけ)や信州に運ばれましたが、苦汁(にがり)が多く、低い評価に甘んじていました。足助の問屋で上等な塩とブレンドされたようです。
明治政府は製塩業についても近代化を図り、小規模・兼業者の多い地域から順に塩田を整理しました。碧海郡の特産物産地として知られた大浜・棚尾の塩田も明治四三年(一九一〇)九月いっぱいで廃止となりました。
今は塩浜、汐田、浜田の町名に名残をとどめています。

問合せ:文化財課内市史資料調査室
【電話】41-4566

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