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[毎年11月1日~7日は文化財保護強調週間]文化財特集 神社の森の成り立ち(2)

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愛知県豊明市

◆中央アジアの支配者の神信仰と古墳
鮮卑(せんぴ)・突厥(とっけつ)・契丹(きったん)・モンゴルなどの歴史的な支配民族の出自は、狼などの獣祖説話が圧倒的多数で、天山山麓のウィグル族は樹木生であるが、神々を木葉山(森?)に祀るのがユーラシア共通の信仰形態である。BC6〜BC5世紀のスキタイ(黒海北方)では大規模な古墳が築かれて、見事な美術工芸品を生み残した。中国北辺には古墳が無く、天山山麓の遊牧民の古墳は多量の副葬品を伴うことが特徴である。

◆日本の古代史研究
「発見・検証日本の古代」全三巻(KADOKAWA,2016)には、(1)3世紀後半に纏向(まきむく)遺跡に北部九州の鍛冶技術が入った。(2)国内鉄の生産加工は6世紀から。(3)弥生時代の神は鳥の姿で演じ纏向以降は人の姿になった。(4)天孫降臨のような神話伝説は魏志倭人伝にない。(5)諸国を大倭が監視し監視機関は伊都倭国にあった。(6)箸墓古墳とその後には何代かのギャップがある。(7)応神・仁徳陵以降は馬具が出土する後期古墳。(8)前期古墳は農耕民族的で馬具が無く魏志倭人伝にも「倭には牛馬なし」と記載。(9)4世紀末から奈良盆地の巨大古墳が大阪平野に移動。(10)大船で馬を運搬した渡来人は河内・大和西南部に定着。(11)種籾を春と夏に農民に貸し付け秋に5割の利稲とともに回収。(12)箸墓古墳から前方後円墳の定型化。(13)日本神道初期の三輪祭祀は纏向王権の直後から。などの記述があるが、中国や韓国の研究成果の紹介不足と被植民地における間接支配の視点の欠如があると思われる。

◆韓国の日本古代研究
金聖昊(ソンホ)(著)「沸流(ビリュ)百済と日本の国家起源」(1983,林英樹(訳),成甲書房)は、奈良県天理市の石上神宮の七支刀(国宝)の銘文を従来説の中国・東晋の泰和四年(369)ではなく、魏の泰和四年(230)=神功52年とすると、日本書紀の神功皇后の死亡年は神功69年(247)で、魏志倭人伝の卑弥呼の死亡年である魏の正始八年(247)と一致し、卑弥呼と神功皇后は死亡年が同一の人物であると推測している。神系4天皇(神功・神武・崇神・応神)は朝鮮半島から渡来した建国者・征服者で、崇神王は筑紫出雲に邪馬台国を建国した朝鮮半島からの第一次亡命者である。邪馬台国は男王期の70〜80年間の戦乱、仲哀王死亡(173)の末に女王と交代したので、崇神王の北部九州での邪馬台国建国はAD100年頃となる。一方『百済本紀』に、沸流百済が広開土王の侵攻(396)によって滅亡し、最後の王が倭国に亡命した(397)とあり、第15代応神王である。

◆卑弥呼も古墳も新羅から
『新羅本紀』に、日食(166)の際に新羅皇子の延烏郎(えんうろう)(天日槍(アメノヒボコ))と細烏女(さいうじょ)(巫女・卵生女(らんせいじょ)・神功?)が新羅の「日月之精」を持ち亡命したとの記録があり、神功は亡命後、過酷な天孫系から倭人を解放し、仲哀王の第三妃に(171)、新羅征伐に消極的な仲哀王を殺害(173)、新羅遠征の帰還後、報復を恐れて北九州から畿内へ移動した。邪馬台国消滅(266)から応神王即位(397)までの130年間は、箸墓古墳後の前期古墳が造られた歴史的空白期で、「失われた四世紀」とも言われている。

◆邪馬台国による間接支配
魏志倭人伝には北部九州における邪馬台国の記述がないが、『大唐西域記』(646)に記された天山南路の中央アジア諸国の様子は、往路は第1巻に高昌(トルファン)国以西38国、復路は第12巻に敦煌までの22国の記録があるが、アレクサンドロス大王東征の例に倣って在地領主を間接支配する突厥の記述はほとんどない。日本の建国は渡来した崇神・応神の二段で、崇神王は鉄、応神王は騎馬で間接支配したと考えられる。
文化財保護委員 岡村 穣

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