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良寛をたどる。

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新潟県出雲崎町

このコーナーでは、良寛記念館に所蔵されている良寛に関する作品をご紹介します。

良寛遺墨漢詩五首の内『自来圓通寺』部分

■原文
自来圓通寺 幾経冬春
衣垢聊自濯 食盡出城闉
門前千家邑 更不知一人
曽讀高僧傳 僧可々清貧

■読み下し文
自(みずか)ら圓通寺(えんつうじ)に来(き)たりて
幾(いくら)か冬春(とうしゅん)を経(へ)たる
聊(いささ)か衣垢(えあか)づけば自(みずか)ら濯(あら)い
食盡(しょくつ)くれば城闉(じょういん)に出(いず)る
門前千家(もんぜんせんけ)の邑(むら)
更(さら)に一人(いちにん)も知(し)らず
曽(かつ)て高僧傳(こうそうでん)を讀(よ)むに
僧(そう)は清貧(せいひん)を可(か)とす可(べ)し

■意訳
私は自ら願い圓通寺に来てから、衣が垢で汚れれば自ら洗い、食べ物が無くなれば玉島の町へ托鉢に出るという修行をもう何年も続けている。圓通寺門前の玉島は、千軒の家が並ぶ大きな町である。しかし、玉島で私を知る人は、誰もいない。玉島の人々にとって、私はただ多くの圓通寺の修行僧の一人であり、無名の存在なのである。私は、そんな修行に疑問を感じ『高僧伝』を読んだのである。高僧伝には「僧は清貧であるべし」と書かれていた。
私は「高僧伝」を読んで二つのことに気づかされたのである。一つは、圓通寺の修行に間違いはないこと。そして二つには、昔の高僧たちがすでに、無名であることに不満を抱く、私の「名利心」を見透かしていたことである。

■解説
良寛が、玉島の圓通寺での修行について詠んだ五言絶句。令和二年七月号でも同詩を紹介した。その時は、ほぼ同じ詩である「自来圓通寺」と「従来圓通寺」の冠「自」と「従」の違いによる受け止め方について解説した。この度は、より深く、良寛の修行とその内観について解説したい。
「自来圓通寺」と冠が「自」の作品は、若書きと呼ばれる四十代の作品となる。「自ら圓通寺に来たりて」からは、良寛の「どんな修行も耐える」という、意気込みが伝わってくる。しかし、その思いとは裏腹に、良寛の修行は「衣垢聊自濯食盡出城闉」と「洗濯と托鉢」ばかりであった。
良寛は当時、日本有数の厳しい禅寺と呼ばれた圓通寺で修行するにあたり、相当な覚悟をもって出雲崎を出た。しかし、圓通寺の修行は朝のお勤めと坐禅と講義の外は、「洗濯と托鉢」と、思っていた修行と違っていた。そして、良寛は「幾経冬春」と、どうして何年も同じ修行をするのかと、疑問を感じたのである。
修行に疑問が起こるということは、ここに、良寛が真面目に修行をしているという事実がある。それにも関わらず、玉島の人たちは「更不知一人」と、真面目に修行する自分を知る人は一人もいないと云う。良寛は、真面目に修行をしているにも関わらず、玉島の人たちから認められていないと思ったのである。そして、良寛は昔の高僧はどのような修行をしたのかと思い『高僧伝』を読んだのである。しかし、良寛の予想に反して、高僧伝に書かれていたのは「僧可々清貧」と、ただ清貧に今の修行を継続することであった。そして、本当の修行とは、修行の中で内観し、本当の自分に出遇うことと知ったのである。良寛が出遇った本当の自分とは、名が知れ、人から一目置かれたいという「名利心」を持った自分であった。当詩で語られる良寛の真意とは、修行を疑った反省と名利心を捨て去れない悲しみである。ここに、生涯行脚僧として生きるという、良寛の修行が定まるのである。
良寛は越後帰郷後も、変わらず行脚僧として、清貧を貫く。そして、その修行の中、漢詩では「名利の塵」と記し「名利心が塵の様にこの身から離れない」と内観し何度も、その悲しみを詠んでいる。生涯、名利心に注意した良寛であるが、当時の越後に於いて、良寛の名を知らない人は居なかったそうである。
良寛記念館 館長

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