八月の広報に続いて巡見使加茂町通行を見る。天保九年(一八三八)は、幕府巡見使が加茂町をはじめ下条村などを通った年である。
加茂町の隣村、上条村の商人関金六(せききんろく)家の「年代記」には天保九年、「国々御巡見、一分銀通用始、津軽・南部凶作」とあって、巡見使のことや東北地方の凶作、一分銀が通用したことを記している。
天保九年は短い時期に大名を観察する御国(おくに)巡見使と天領・旗本知行所を観察する御料(ごりょう)巡見使が加茂町に通行しているが、ここでは史料が残る御料巡見使の加茂町通行の実例を見てみたい。
三人の御料巡見使は加茂町に宿泊した。一番上格の御勘定広木義太郎は庄屋の市川正平治宅に、二番の支配勘定三宅弥作は神主の古川右近宅に、三番の御小人目付は百姓代の丸川屋(小林)松之丞宅に宿泊とした。
ここでは古川右近宅の様子をみたい。巡見使三宅弥作は、天保九年の五月十八日七ツ半時(午後五時頃)に古川右近宅に到着した。すでに荷物が届いており長持ちと角荷などがあった。上段の間には、上敷が用意された。次の間には用人(側近)二十三人が待機した。
翌朝、朝食を取った後、巡見使は古川邸の三宅弥作、市川邸の広木義太郎、丸川屋の石川九十郎は三人共ども石段最上段の加茂大明神に参詣した。神主が案内して御神酒を直に下したとある。三人は次に石段下の右手の糺(ただす)(加茂御祖(みおや)神社)神社、次いで石段下左手の青海神社と三社を参詣した。なお、古川右近宅には御国巡見使の筧新太郎も宿泊している。
加茂町では巡見使の加茂町来町に際し、当時の各種相場を書き上げて、問屋(といや)松之丞、年寄(としより)次郎作などが連名して差し出した。それによれば、上白米一升八六文、大豆一升六八文、大麦一升六八文、糠(ぬか)一升七文、酒一合一五文、草履一足七文、草鞋(わらじ)一足六文、金一両は銭六貫七六〇文の相場であった。
当時の加茂町は、村高一四二六石余、人口二九六八人、家数六六二軒で、旅籠(はたご)は一七年前の文政三年(一八二一)で一八軒があった。
(関 正平)
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