ここに紹介する「粟生田」と記された墨書土器(ぼくしょどき)(写真1)は令和三年に行われた下条字福島の花立遺跡の発掘調査で出土した。文字は平安時代、九世紀頃の須恵器無台杯(すえきむだいつき)底部に墨書され、「粟生田」のほかに「下粟生田家」・「寺粟」など、「粟生田」と関連するものが数点ある。
「粟生田」は(あおうだ・あおだ)と読めるもので、三条市の保内地区に中世のころにあった村の名前と同じものと考えられる。史料上でこの粟生田を確認できるのは、南北朝時代の元弘(げんこう)四年(一三三四)の実廉(さねかど)申状に見える「実廉所領同国粟生田保」が初見である。実廉とは鎌倉時代後期から南北朝時代にかけての公家で、阿野実廉のこと。越後国粟生田保は阿野実廉の所領であった。保とは公領のこと。史料には三条~見附にかけて存在した大面荘(おおものしょう)で起きた争乱に粟生田保の地頭代がいち早く駆けつけ征討したことが記される。
また、文禄(ぶんろく)四年(一五九五)の上杉氏によって行われた検地(土地の測量)を示す直江兼続(なおえかねつぐ)黒印状に蒲原郡保内は、宮之浦村・粟生田村・二山村・本所村・柳沢村・牛ヶ島村の六か村だと記される。この保内としてのまとまりを持つ地域が、粟生田保だったと考えられてきた(図1)。
しかし、この墨書土器の出土によって、粟生田保の範囲が加茂市の福島地内まで拡がっていた可能性が示され、同時に地名の起源が約五百年遡及することも明らかとなった。なお、「下粟生田家」の下からは上とつく地名、家は何らかの施設(建物)の存在を示唆することから、周辺の遺跡で出土している文字資料や建物などを合わせて検討する必要がある。
「粟生田」関連の墨書土器は古代~中世、そして現代までを結ぶ貴重な資料である。
(伊藤秀和)
長年皆様から親しまれてきました「加茂の風土記」ですが、今号をもって最終回となります。長きにわたりご愛読いただき、ありがとうございました。
※「六か村」の「か」は環境依存文字のため、置き換えています。正式表記は本紙をご覧ください。
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